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大宝寺義興

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大宝寺 義興(だいほうじ よしおき)は、安土桃山時代大名大宝寺氏18代当主。武藤義興とも呼ばれる。丸岡兵庫とも称した[1]

概要 凡例大宝寺 義興 / 武藤 義興, 時代 ...

生涯

天文23年(1554年)、大宝寺義増の二男として誕生する。初めは櫛引郡丸岡城を居城としていた。

元亀2年(1571年)、兄であり大宝寺氏17代当主・義氏が、対立していた家老・土佐林禅棟を滅ぼした後、その居城・藤島城に入った[2]

天正7年(1579年)、義氏は織田信長と誼を通じ、屋形号を得る[1]。同年、義興は義氏より羽黒山別当の座を譲り受ける[1]。同職は武藤家宗家世襲していた[1]

天正11年(1583年)3月、最上義光に通じた家臣・前森蔵人の謀反により義氏が自害した[3]。このため、義興が尾浦城に入り、家督を継いだ[4][5]最上氏の圧迫に対し、同12年(1584年)、義興は東禅寺筑前(前森蔵人)とともに上杉景勝に馬と鷹を送り、援助を求めた[4]。この頃、義高と称した[4]

天正14年(1586年)春、東禅寺らが北荘内で反乱を起こした[4]。義興は米沢伊達政宗に援助を求めるとともに、同15年(1587年)、本庄繁長の二男・千勝丸(義勝)を養子に迎え、上杉氏との関係も強化した(「本庄家譜」)[5][6]。最上氏への被官の道よりも自家の独立・存続を願い、万が一の時は本庄氏、上杉氏を頼みとした、積極、且つ苦渋なる外交選択であった[要出典]

同年10月、東禅寺が再び反乱を起こした[7]。義興は東禅寺を攻めたが、最上義光の援軍が六十里越街道を越え、荘内に侵攻したことで形勢が逆転する[7][5]。同月、義興は大敗し、自害した[7][5][注 1]。このときをもって、約400年続いた武藤氏大宝寺氏)は実質的に滅亡した[7]

清水城(田川郡)にいた養子・義勝は小国城に逃れた[7]

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脚注

参考文献

外部リンク

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