トップQs
タイムライン
チャット
視点

大木正幹

日本の短距離走選手 (1907-2000) ウィキペディアから

大木正幹
Remove ads

大木 正幹(おおき せいかん)は、日本の陸上競技短距離走)選手・指導者。法政大学在学中[2]の1932年、ロサンゼルスオリンピック400m走4×400mリレーで出場した。

概要 大木 正幹, 選手情報 ...

経歴

旧制延岡中学校(現在の宮崎県立延岡高等学校)出身[3]法政大学に進学。

短距離走の選手であるが、1930年の東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝。第11回)に出場した。箱根駅伝にはその後も1931年(第12回)、1932年(第13回)、1933年(第14回)と、計4度出場している[4]

1932年、日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)の400m走で優勝[5]1932年ロサンゼルスオリンピックの日本代表に選ばれ、400m走と4×400mリレーに出場。400m走では2次予選落ち[注釈 1]。4×400mリレー(中島亥太郎増田礒・大木正幹・西貞一)で5位入賞[6][7]。なお、大木は法政大学出身者としては初のオリンピック選手の一人[注釈 2]である[8][9]

卒業後、大木は母校法政大学の陸上競技部の監督を務めた[9]。指導者としては、形に当てはめた指導や練習の強制を誤りと主張し、選手それぞれの体力や個性に適した走法を取り入れた[9]

また、日本陸上競技連盟の運営に関わり[9]、1939年にウィーンで開催された万国学生陸上競技大会 (1939 International University Games (Vienna)) では、日本選手団の総務を務めた[10][注釈 3]

第二次世界大戦後、1947年の日本学生陸上競技連合(日本学連)の再建[注釈 4]にもOB役員として参画している[11]

Remove ads

記念

  • 延岡駅前複合施設「エンクロス」の西側市民交流広場には「延岡市ゆかりの歴代オリンピック・パラリンピック出場者・手形足形モニュメント」がある。大木はその筆頭に置かれている[12][13]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads