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天野正一

日本の陸軍軍人 ウィキペディアから

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天野 正一(あまの まさかず、1898年明治31年)5月10日[1][2] - 1979年昭和54年)10月8日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。最後の参謀本部作戦課長(第1部第2課長)[2][3]

経歴

愛知県出身[1][2][4]名古屋陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業[1][2][5]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる[1][5]。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を首席で卒業し歩兵第19連隊中隊長に就任[2][4][6]

1932年(昭和7年)12月、教育総監部付となる[1]。1935年(昭和10年)3月から1938年(昭和13年)4月までドイツポーランドに駐在した[1]

1938年7月、第2軍参謀(作戦主任)に発令され日中戦争に出征[1][2]第11軍参謀、陸大教官を務め、1940年(昭和15年)8月、歩兵大佐に昇進[1][4]。1941年(昭和16年)3月、参謀本部欧米課長(第2部第6課長)に就任[4][7]。以後、大本営第2部第16課長、支那派遣軍参謀(作戦課長)を経て、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に昇進し第6方面軍参謀副長に就任[1][2][4]。1945年(昭和20年)2月、参謀本部作戦課長に転じ終戦を迎えた[1][2][4]。 同年8月18日、アメリカ政府からマニラに代表者を派遣するように要求があり、全権委員となった河辺虎四郎が全権委員に就任。天野も随行の一人に選ばれてマニラに渡った[8]。 同年12月に予備役に編入され、1946年(昭和21年)12月まで復員事務官を務めた[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[9]

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脚注

参考文献

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