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太田収

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太田 収[1](おおた おさむ、1890年明治23年〉1月12日[2] - 1938年昭和13年〉5月28日[2])は、日本の実業家山一証券社長を務めた[3]。投機に失敗し自殺した。証券業界における初の東京帝大出身者[4]

経歴

岡山県吉備郡庭瀬村(庭瀬町吉備町を経て、現在の岡山市北区)出身。のちに家督を相続する[3][5][6]1916年東京帝国大学法科大学独法科を卒業した[1][3][5][7]

同郷の先輩野崎広太の勧めで、小池国三の小池合資会社(のちの山一證券)に入る[1][4]古荘四郎彦河合良成らと、兜町で働く東京帝大法科出の遊会「十八日会」を作り親交した[8]。1926年、山一証券常務に昇進。鐘紡株で巨利を得、社長の杉野喜精に「証券業の天才」と評された。1935年に社長就任[3][4]

自ら鐘紡株の思惑買いを進めていたが、暴落で失敗する[2]。1938年、前社長杉野喜精に辞表を出し、私財を投げ打っても損失を埋められなかった為、5月に遺書を残して服毒自殺[2]。副社長だった平岡伝章が一時的に代理を務めた後、同年12月に専務の木下茂が後任として社長職に就いた。

人物

母方の会津気質を受け、大の負けず嫌いの性格で、祖父の手代木勝任に似て眼光鋭く、意志強固、明敏細緻な性格であった[9]渋谷区多額納税者である[10]。宗教は神道[1]。趣味は柔道将棋[1]。住所は東京市渋谷区豊分町[3][10](現在の渋谷区広尾)。

同じ岡山出身の犬養毅は太田の帝大時代の保証人である[4]獅子文六の『大番』に登場する木谷のモデルである[4]。同作の主人公・赤羽のモデルである佐藤和三郎は太田の弟子[4]

家族・親族

太田家
親戚

関連書

  • 『滅びの遺伝子 山一證券興亡百年史』 (鈴木隆 著)

脚注

参考文献

関連項目

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