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太田朝敷
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太田 朝敷(おおた ちょうふ、1865年5月2日(尚泰18年4月8日[1])- 1938年(昭和13年)11月25日[2])は、沖縄の新聞人、政治家。慶應義塾で福沢諭吉の薫陶を受ける。琉球新報(戦前)の設立に参画し、のちに社長となる。また言論人としては沖縄県の本土への同化を強く唱えた。著書に『沖縄県政五十年』など。


来歴
同化主義的言論
太田は日清戦争で親中派の頑固党に対し、親日的開化党の立場で論陣を張り、その後、一貫して沖縄の本土への同化を強く訴えた[4][5]。
太田は1900年の講演で「沖縄今日の急務は何であるかと云へば、一から十まで他府県に似せることであります。極端にいへば、クシャミすることまで他府県の通りにすると云う事であります」[6]と極端な同化主義を唱えている。
人類館事件への対応
1903年、大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会の際、その周辺で「学術人類館」という見世物小屋が建てられ、琉球女性がアイヌ、台湾人、朝鮮人、中国人、インド人、ハワイ人などとともに「陳列」される事件が起こった。これに対し、朝鮮や中国の留学生が抗議の声をあげ、太田も琉球新報紙上で「隣国の対面を辱めるものである」と批判したが、一方で「琉球民族が生蕃(台湾高山族)やアイヌと同一視され、これ以上の侮辱はない」と差別意識丸出しの論評を行なった。[7]
記念切手のモデル
脚注
参考文献
関連文献
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