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太田駒千代
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太田 駒千代(おおた こまちよ)は、戦国時代(室町時代後期)の人物。太田康資の長男。
経歴
天文22年(1553年)、江戸城代・太田康資の長男として生まれる。母は不明だが、康資の正室・法性院が天文11年(1542年)生まれであることを考えると、彼女の子であるとは考え難い。黒田基樹は、駒千代の母は康資の側室・太田下野守の娘であった可能性が高いと指摘している[1]。
永禄6年(1563年)末、駒千代の父・康資は北条氏から離反し里見氏の下へ走る。これがきっかけとなり、翌7年1月に国府台(千葉県市川市)で太田・里見連合軍と北条軍が激突(第二次国府台合戦)。結果、太田・里見方は大敗し、康資は里見氏に従って上総へ落ち延びた。
この時、駒千代は親元を離れ伊豆国熱海の医王寺に滞在していた。学問を修めるためであったとされるが、実際には北条氏への人質であったと考えられる[1]。国府台合戦の結果を受け、駒千代は同年8月28日に北条氏からの討ち手によって自決させられた。享年12歳。
脚注
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