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太田重正
戦国時代から江戸時代前期の武将。子に太田正重(水戸徳川家家臣)、橋本資宣、遠山資為(旗本9百石)、荒尾久成の妻 ウィキペディアから
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太田 重正(おおた しげまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
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一族
経歴
重正の父とされる太田康資は、はじめ後北条氏に仕えたが、恩賞の不満から離反(諸説ある)し、第二次国府台合戦で大敗すると安房国の里見氏の下に逃亡。のちに里見氏の内紛に巻き込まれて自害したとされている。
重正は父の死後、佐竹義重のもとへ赴き、同地に亡命していた同族の太田資正(岩槻太田氏)を頼って落ち延びたという。「重正」の名も義重と資正から1字ずつ与えられたものという推測もされている。のちに京都に移住したともいわれる。
1590年(天正18年)の北条氏滅亡後、関東に移封されてきた徳川氏の家臣となった。翌1591年(天正19年)、武蔵国豊島郡蓮沼において500石を与えられた[1]。死後に子の資宗が加増を重ね、大名(下野山川藩)に列した。資宗は英勝院の養子となっていたので、その引き立てがあったとも考えられる。
重正の出自の疑義
重正の父親とされる太田康資は、江戸城築城で知られる太田道灌の曾孫である。しかし、重正が康資の実子であるかどうかは確証がない、とする説がある。康資の確実な実子の太田駒千代は後北条氏の人質となっていたが、康資が後北条氏から離反した際に自害させられ、墓所とされるものが現存する。また、妹の英勝院は一般的には康資の娘とされているが、この出自もまた確証が無い。太田氏の家系図に対して、資宗の代の頃に何らかの改竄が行われたとする説がある。
一方で、黒田基樹は康資存命中の天正7年(1579年)の文書[2]に重正が仮名・六郎として登場していることを指摘している[3]。これに従えば、重正の出自の疑義は解消されることになる。
脚注
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