トップQs
タイムライン
チャット
視点

存在

実体が物理的または精神的現実と相互作用する能力 ウィキペディアから

存在
Remove ads

存在: Existence)は、実在性ないし「あること(being)」を有する状態のことであり、非存在(nonexistence)および非有(nonbeing)と対比される。存在はしばしば本質とも対比される。ある存在者(entity)の本質とは、その存在者にとって本質的な特徴や性質のことであり、それはその実体が実際に存在するかどうかを知らなくても理解することができる。

Thumb
論理学において、存在記号は ∃ と表記されることが多い。

存在論は、存在の本性および形式を研究する哲学的分野である。単称存在(singular existence)は個別の存在者を指し、一方で一般存在(general existence)は概念ないし普遍としての存在を指す。時空間に実在する存在者は具体的存在を有し、数や集合のような抽象的存在者(abstract entities)と対比される。また、可能的・偶然的・必然的存在、あるいは物的・心的存在といった区分も存在する。一般的には、存在者は存在するか存在しないかのどちらかであり、その中間であることはないと考えられる一方、一部の哲学者は「存在の程度(degrees of existence)」があり、ある存在者は他の存在者よりもより高い程度で存在すると論じている。

存在論における正統派的立場は、存在とは二階の性質(second-order property)、あるいは性質の性質(property of properties)であるというものである。たとえば、「ライオンが存在する」という文は、「『ライオンという性質』が特定の存在者に属している」ことを意味するといえる。一方で、存在を一階ないし個物の性質とする見解もある。この考えによれば、存在は色や形といった、ほかの個物の性質と同様である。アレクシウス・マイノングおよびその支持者はこの見解に立ちながら、すべての個物がこの性質を有するわけではないと論じる。彼らによれば、たとえばサンタクロースは個物である一方存在はしない。普遍主義者はこうした立場を拒絶し、存在はあらゆる個物が普遍的に有する性質であると論じる。

存在の概念は、哲学史全体にわたって論じられてきており、すでに古代哲学においても重要な役割を果たしていた。これには、古代ギリシアソクラテス以前の哲学者による哲学、 古代インドヒンドゥー哲学および仏教哲学、そして古代中国老荘思想が含まれる。存在の概念は、論理学数学認識論心の哲学言語哲学、さらには実存主義といった分野とも関連している。

Remove ads

定義と用語

要約
視点

存在とは、実在すること、あるいは実在に参与している状態を指す[1]。存在は、実在する存在者と想像上のものとを区別し[2]、個別の存在者を意味する場合もあれば、実在の全体性(totality of reality)を意味する場合もある[3]。「existence」の語源は中世ラテン語で「立ち現れる」「現れる」「生じる」という意味を持つex(s)istereであり、14世紀後半に古フランス語を経由して英語の語彙となった[4]。存在は、形而上学の一分野であるところの存在論において研究されている[5][注釈 1]

「有(being)」「実在(reality)」「現実(actuality)」はいずれもしばしば「存在(existence)」の同義語として用いられる[8]。しかし、存在の厳密な定義および、関連用語とのつながりについては、混乱がある[9]アレクシウス・マイノングによれば、すべての対象は「有(being、Sosein)」の性質を持つ(相在する、なんらかの性質を有する)一方で、「存在(existence、Sein)」の性質を持つとは限らない。彼は相在する一方で、存在しない対象としてサンタクロースを例示している[10]八木沢敬は、存在(existence)と実在性(reality、リアリティ)を対比させる。彼によればリアリティはすべての存在者を等しく特徴づけるため、存在よりも基礎的な用語である。また、存在は「ある存在者が属する世界との相対的な関係」として定義される[11]ゴットロープ・フレーゲによれば、現実(actuality)は存在よりも狭い概念であり、変化を生みだし、また受け入れるのは現実の存在者のみである。これに対し、集合といった非現実的存在者(non-actual existing entities)は存在はするものの変化しない[12]エトムント・フッサールといった哲学者によれば、存在は基本的概念であるゆえに、他の概念を用いて定義する場合に循環を免れることはできない。こうした立場を取るならば、存在を特徴づけること、あるいは非自明な仕方で存在について論じることは困難ないし不可能であるといえよう[13]

存在の本性(nature)をめぐる議論は、薄い概念(thin concept)と厚い概念英語版の区別にも反映されている。薄い概念としての存在は、あらゆる存在するものが共有する論理学的性質として理解され、存在を有することの形而上学的含意について実質的内容を含まない。この観点を取る典型的な立場の一つとして、存在は論理学的性質であるところの同一律と同じとするものがある。すなわち、つまり、「あるものが存在する」ことは、「あるものがあるものである」こととほとんど同義であり、存在の本性についてはいかなる形でも論じていない[14]。厚い概念としての存在は、「あるものが存在するとはどういう意味か」「存在が含意する本質的特徴とは何か」といった形而上学的分析を包含する。存在を「時空間に現前し、他のものに作用を及ぼすこと」と定義しようとする提案がある一方、これは数のような抽象的対象を存在と認めないことから、議論を呼ぶものである。ジョージ・バークリーは異なる存在の厚い概念を提示し、「存在するとは知覚されることである」と論じた。この立場からみると、すべての存在は心的なものといえる[15]

存在は非存在(nonexistence)とも対比される。対象が存在・非存在英語版に二分できるかどうかについては議論がある。この区分は、ドラゴンユニコーンといった虚構の対象を考えることがどのようにして可能となるか論じる際、しばしば用いられる。しかし、非存在対象という概念は広く認められるものではなく、この概念は矛盾であると考える哲学者もいる[16]。非存在と密接に関連する用語としては、と非有(nonbeing)がある[17]。存在は概して心的なものとは独立した実在と関連付けられるが[18]、人の観念のような、心的なものに依存する存在も考えうるため、この立場は必ずしも普遍的なものではない。観念論の立場からは、すべての実在は心的なものともいえる[19]

存在と本質(essence)も対比される。本質は存在者固有の本性(nature)、ないし存在者を定義づける質(quality)を指す。本質は存在者がどのような種類のものであるか、また他の種類の存在者とどう異なるかを規定する。本質が「ある存在者が何であるか」に対応するのに対し、存在は「それがあるという事実」に対応する。例えば、その対象が実際に存在するかを考慮しなくとも、ある対象が何であるかを理解し、その本性を把握することは可能である[20]。一部の哲学者によれば、存在者自体と、存在者を存在者たらしめる本源的特徴は異なるものである[21]マルティン・ハイデッガーはこの区分を論じるために存在論的差異英語版の概念を導入し、存在者(beings、Seiendes)と存在(being、Sein)を対比させた。ハイデッガーによれば、存在は存在者とは異なる一方で、すべての存在者それぞれを知覚可能にするための文脈としてはたらく[22]

Remove ads

存在の種類

要約
視点

存在する諸存在の種類をめぐる多くの議論は、それぞれの種類の定義、特定の種類の存在者が存在・非存在について、異なる種類の存在者どうしの関係、さらにはある種類が他の種類より本質的かどうか、といった問題を中心に展開される[23] 。たとえば、霊魂、あるいは抽象・虚構・普遍的存在の有無などが議論の対象となってきた。また、現実世界にくわえて、可能世界・対象の存在および非存在も論じられる[24]。これらの論は、すべての実在の基礎的部分ないし構成要素および、存在者のもっとも一般的な特徴に関する話題に及ぶ[25]

単称・一般

単称存在(singular existence)と一般存在(general existence)の区分が存在する。単称存在は、個別の存在における存在である。たとえば、「アンゲラ・メルケルは存在する」という文は、特定の個人の存在を表現するものである。一般存在は、一般的な概念・性質ないし普遍に関連する[注釈 2]。一方で、「政治家は存在する」という文は、一般名辞「政治家」が実例を持つことを述べており、特定の政治家については言及しない[27]

単称存在と一般存在は互いに密接に関連しており、一部の哲学者は一方を他方の特殊な場合として説明しようとしている。たとえばフレーゲによれば、一般存在は単称存在よりも基礎的である。この立場を支持する論として、単称存在が一般存在として表現しうることが挙げられる。たとえば、「アンゲラ・メルケルは存在する」という文は、「アンゲラ・メルケルと同一の存在者が存在する」ことを意味し、この場合「アンゲラ・メルケルと同一であること」は一般名辞として理解される。一方で、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインはこれとは異なる立場を擁護する。いわく、単称存在は一般存在に優越し、一般存在は単称存在として表現することができる[28]

これに関連して、単称存在を含まない一般存在が存在するかという問題がある。哲学者のヘンリー・レオナルド(Henry S. Leonard)によれば、ある性質は、それを例化する現実の対象が少なくとも一つ存在している場合にのみ、一般存在を有す[注釈 3]。一方で、ニコラス・レッシャー英語版によれば、「ユニコーンである」といった、現実の例と結びつかない性質も存在しうる[30]。この問題は、普遍の存在とも関連づけられながら、哲学において古くから論じられてきた。プラトン主義においては、普遍はイデアとして、個物とは独立してまったく抽象的(Platonic)な形で一般存在を持つと論じられる[注釈 4]。また、個物は、それらの普遍を例示する。この立場によれば、「赤さ」という普遍は、赤い対象の存在・非存在とは独立して存在する[32]アリストテレス主義も普遍の存在を認めるものの、普遍の存在はそれを例化する個物に依存しており、普遍それ自体で単独に存在することはできないとする。この立場によれば、時空に現前しない普遍は存在しない[33]唯名論においては、個物のみが存在し、普遍なるものは存在しない[34]

抽象・具体

存在論においては、対象における抽象と具体の区分も有力である。岩石・植物・ヒトといった多くの具体的対象(concrete objects)は時空間上に存在し、日常生活においても遭遇することができる。これらの対象は互いに影響しあう。たとえば、岩石が落下して植物を傷つけることもあれば、植物が岩石を突き破って成長することもある。数・集合・種類といった抽象的存在(abstract objects)は時空間上に存在するわけではなく、因果的な力を有さない[35]。具体的対象と抽象的対象の区別は、しばしば有(being)の最も一般的な区分として扱われる[36]

具体的対象が存在していることは広く認められる一方、抽象的対象が存在しているかどうかについては議論がある。プラトンのような実在論者は抽象的対象を独立した存在として認める[37]。実在論者には、抽象的対象は具体的対象と同じ様式で存在する者もいる一方で、それらが異なる仕方で存在すると考える者もいる[38]。一方で、反実在論者は、抽象的対象は存在しないと論じる。この見解はしばしば、「時空間上に位置し、因果的に相互作用できることが、存在の要件である」という考えと結びつけられる[39]

可能・偶然・必然

存在には、単に可能的(merely possible)、偶然的(contingent)、必然的(necessary)の区別もある[40] 。ある存在者が必ず存在する、あるいは存在しないことができない場合、それは必然的存在を有する。必然的存在は新しく生成されたり、破壊されることはない。存在する一方で、存在しないこともできる存在者は、偶然的存在を有する。単に可能的な存在者は、存在しないが、存在することもできる[41]

電話・棒・花といった、日常的経験において遭遇する多くの存在者は偶然的存在である[42]。電話が偶然的存在であることは、現在は存在しているが過去には存在していなかった、すなわち電話の存在は必然ではない、という事実に反映されている。必然的存在をもつ存在者が、実際に存在するかどうかは未解決の問題である[43]。一部の唯名論者は、すべての具体的対象は偶然的存在をもち、すべての抽象的対象は必然的存在をもつという見解を有する[44]

宇宙の存在基盤について論じるうえで、いくつかの必然的存在が必要であると論じる理論家もいる。イブン・スィーナートマス・アクィナスは、神は必然的存在であると主張した[45]バールーフ・デ・スピノザのような哲学者は、神と世界は同一の存在であると論じ(汎神論)、万物を統一的・合理的に説明すべく、すべての存在者は必然的存在であると主張する[46]

単に可能的対象の存在については、多くの学術的議論がある。現実論英語版の立場からは、現実的存在者(actual entity)のみが「ある(have being)」。偶然的・必然的存在者は現実の存在者である一方で、単に可能的存在者はここに含まれない。可能論英語版はこの主張を退け、現実的存在者のみならず単に可能的対象もあると論じる[47]デイヴィド・ルイスは、何が可能か・何が必然かという命題が真である理由について頑健な説明をおこなうべく、可能的対象は現実的対象と同じ仕方で存在すると論じた。いわく、可能的対象は可能世界に、現実的対象は現実世界に存在し、可能世界と現実世界の差異は話者の位置により区別される。つまり「現実」という語は話者の世界を指すのであり、それは「ここ」や「今」という語が話者の時空間上の位置を指すのと同様である[48]

偶然的・必然的存在の問題は「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という存在論的問題とも密接に関連する。ある見解によれば、存在しているという事実は偶然的なものであり、世界は完全に空である可能性もあった。しかし、必然的存在者があるならば、それらは存在しないことができないため、世界が全くの無であることは不可能となる。この場合、世界には少なくともすべての必然的存在者が含まれていなければならない[49]

物的・心的

物的(physical)に存在する存在者には、石・木・人体といった日常生活で遭遇する対象のほか、電子陽子といった現代物理学において議論の対象となる存在者もふくまれる[50]。物的存在者は時空間上に位置し、観察・測定することができる[51]。心的存在者には知覚、快や苦の経験、さらには信念・欲望・感情などがあり、これは心の領域に属する。これらは主として意識経験に関連するが、無意識的信念・欲望・記憶といった無意識状態も含まれる[52]

心身問題は物的存在と心的存在の存在論的地位およびその関係に関する問題であり、形而上学や心の哲学において頻繁に論じられる[注釈 5]唯物論的考えでは、もっとも基礎的な程度で存在するのは物的存在者のみである。彼らは通常、心的存在を脳の状態や神経活動のパターンといった、物的過程の観点から説明しようとする[54]観念論[注釈 6]。現代哲学においては少数派の見解であるが[56]、物質がもっとも根源的であるという考えを退け、心をもっとも基本的な実在とみなす[57]ルネ・デカルトなどのような思想家は、実体二元論の立場を取る。いわく、物的・心的存在者はいずれももっとも基本的であり、両者はいくつかの仕方で関連づけられてはいるものの、一方を他方に還元することはできない[58]

その他

虚構的存在者(fictional entity)は、フィクション作品に登場する存在者である[注釈 7]。たとえば、シャーロック・ホームズは、アーサー・コナン・ドイルの『緋色の研究』に登場する虚構的キャラクターである。魔法の絨毯は、『千夜一夜物語』に登場する虚構的対象である[60]。反実在論の立場からは、虚構的存在者はいかなる実質的意味においても実在の一部を構成しない。可能論の立場からは、虚構的存在者は可能的対象のサブクラスと認められる。創作論者(creationists)は、虚構的存在者は最初にそれを構想した作者に依存して存在する人工物であると考える[61]

志向的非存在(intentional inexistence)は、心的状態内部における対象の存在に関わる類似の現象である。これは、人がある対象を知覚したり思考したりするときに生じる。ある場合には、志向的対象は心的状態の外部に実在する対象に対応する。たとえば庭の木を正確に知覚している場合がそうである。別の場合には、志向的対象は現実に対応物をもたない。たとえばビッグフットについて思考するときである。志向的非存在の問題とは、存在しない存在者について人がどのように思考できるのかを説明することであり、これは「思考者が存在しない対象と関係をもっている」という逆説的な含意をもたらすようにみえる[62]

Remove ads

存在の仕方と程度

異なる種類の存在者の問題と密接に関わるのが、それらの存在の仕方(mode of existence)も異なるのかどうかという問いである。存在論的多元論(ontological pluralism)によれば、異なる種類に属する存在者は、その本質的特徴だけでなく存在の仕方も異なる[63]。この立場は神学において見られることがある。すなわち、神は被造物と根本的に異なる存在であり、神学者はその独自性を強調するために、この差異は神の特徴と神の存在様式の双方に及ぶと論じる[64]

存在論的多元論の別の形態では、物質的対象(material object)の存在と時空そのものの存在を区別する。この見解によれば、物質的対象は時空間に存在するため相対的存在(relative existence)を有するのに対し、時空間そのものの存在はそのような相対性を持たない。なぜなら、時空間は別の時空間の中に存在するのではなく、単に存在しているからである[65]。存在の程度(degrees of existence)という論点も、存在の仕方の問題と密接に関連している。この考えは、ある存在者は他の存在者よりもより高度に存在する、あるいはより多くの有(being)を持つ、という発想に基づく。これは熱や質量といった性質に程度があることとも似ている。たとえばプラトンは、イデアは物的対象よりも高い程度で存在すると論じた[66]

異なる種類の存在者があるという見解は形而上学において一般的である一方、それらの存在の仕方や程度が異なるという考えはしばしば退けられる。すなわち、あるものは存在するか存在しないかのいずれかであり、その中間はないとされる[67]。形而上学者のピーター・ヴァン・インワーゲン英語版は、異なる存在の仕方という概念を否定する論拠として、存在と量化が密接に関係していることを挙げる。量化は対象を数えることに関連するが、インワーゲンいわく、もし存在者に異なる存在の仕方があるのならば、それぞれの仕方に対応する異なる種類の数が必要となるはずである。しかし、実際には同じ数を用いて異なる種類の存在者を数えることができるため、すべての存在者は同一の存在の仕方を有する[68]

存在の本性

要約
視点
Thumb
存在の本性をめぐる議論の対象として、ペガサスのような虚構的対象の存在論的地位に関するものがある[69]

存在の本性に関する理論は、何かが「存在する」とはどういう意味なのかを説明しようとする。学術的議論における中心的争点の一つは、存在が個物の性質なのかどうかという点である[70]。個物(individual)とは、ソクラテスは特定のリンゴといった固有の存在者のことである。性質(property)は、「ヒトである」「赤い」などのように存在者に関連づけられるものであり、多くの場合その存在者の質ないし特徴を説明する[71]。存在の本性をめぐる特に有力な理論として、一階の理論(first-order theory)と二階の理論(second-order theory)がある。一次理論は、存在を個物の性質として理解する。一方で、二次理論は、存在を二階の性質、すなわち性質の性質(property of properties)として論じる[72]

存在の本性に関する理論における中心的課題の一つは、「サンタクロースは存在しない」といった文のように、何かの存在を首尾一貫して否定することがどうして可能なのかを理解することである。このときの難点は、サンタクロースが存在しないのに、どうして「サンタクロース」という名称が意味を持ちうるのかを説明する点にある[73]

二階の理論

二階の理論は、存在を一階の性質ではなく二階の性質として理解する。これは、しばしば存在論における正統派的立場ともみなされる[74]。たとえば、エンパイア・ステート・ビルディングは個別の対象であり、「443.2m である」はその一階の性質である。「(443.2m であることが)例化されている」ことは「443.2m である」ことの性質である。二階の理論によれば、存在について論じることはその性質が何らかの例を有することと同一視できる[75]。たとえば、「神は存在する」という文は、「神は存在という性質を有する」ことではなく、「『神であること』は例化されている」ことを意味する[2]

存在を個物の性質として特徴づけることに反対する中心的理由として、存在は一般的な性質と異なることが挙げられる。たとえば「建物である」「443.2m である」といった通常の性質は、ある対象がどのようなものであるかを表現し、そのような建物が存在するかどうかには触れない[76]。存在しない対象はいかなる性質を持つこともできないため、存在はその他の一般的性質よりも基礎的であるといえる[77]

二階の理論の立場によれば、存在を表すのは述語英語版ではなく量化子である[78]。述語は対象に適合され、それを分類する表現であり、通常は「チョウである」「幸福である」といったかたちで特徴を付与する[79]。量化子はある性質を有する対象の質について論じる際に用いる名辞である。存在記号は、「何匹かの牛が草を食べている」「偶数である素数が存在する」といった文における「何匹かの」「~が存在する」といった表現と同様に、少なくともひとつの対象があることを表現する[80]。この点において、存在は数えることと密接に関係している。なぜなら「あるものが存在する」と主張することは、その概念がひとつ以上の例を持つと主張することだからである[75]

二階の理論によれば、「卵を生む哺乳類が存在する」といった文は、「存在する」が述語として用いられているゆえに誤解を招くものである。この立場からすると、「『卵を産む哺乳類』という性質を有する対象は存在する(少なくともひとつ以上の例を持つ)」がより論理学的に正しい。このようにすることで、「存在」は量化子、「卵を生む哺乳類」は述語として機能する。同様に、否定的な存在文も量化文として表現できる。たとえば「話すトラは存在しない」という文は、「『話すトラ』という性質を有する対象は、ひとつも存在しない(少なくともひとつ以上の例を持つことが否定される)」と言い換えられる[81]

多くの存在論者は、二階の理論が多くの種類の存在文を正しく分析していることを認めている。しかし、それがすべての場合に正しいかどうかについては議論がある[82]。問題の一部は、日常言語における直観と関連しており、たとえば「ドナルド・マクドナルドは存在しない」という文のようなケースに見られる。こうした文は、単称否定存在命題(negative singular existential)と総称される。同文において、「ドナルド・マクドナルド」は個人(個物)を指す単称名辞としてふるまっているようにみえる。しかし、「ドナルド・マクドナルド」という個物が存在しない場合、なぜその表現が個物を指しうるのかが不明瞭となってしまう。バートランド・ラッセルにより提案された解決法は、単称名辞は個物そのものを指しているのではなく、個物を記述(description)しているのであると解釈することである。この立場によれば、単称否定存在命題は「存在しない個物を指している」のではなく、「その記述に合致する対象が存在しない」ことを述べている。つまり、「ドナルド・マクドナルドは存在しない」という文は、「ハンバーガーが大好きな、特定の愉快なピエロとして記述されるドナルド・マクドナルドとして記述される対象は、ひとつも存在しない」ことを意味する[83]

一階の理論

一階の理論によれば、存在は個物の性質のひとつである。これらの理論は二階の理論ほど広く受け入れられてはいないが、影響力のある支持者もいる。一階の理論には、マイノング主義(Meinongianism)と普遍主義(universalism)がある[84]

マイノング主義

Thumb
マイノングによれば、対象は存在するとは限らない。

マイノング主義はアレクシウス・マイノングにより定式化された立場であり、存在はある種の対象にのみ属する性質であるとする。その中核的主張は対象性(objecthood)と存在は独立しており、存在しない存在者(entity)が存在することである。たとえば「空飛ぶ豚」といった単に可能的対象、あるいはシャーロック・ホームズやゼウスといった虚構・神話的対象は、存在しない対象である。この見解によれば、これらの対象は存在しないが、実在・相在はしている[85]。マイノングによれば、あらゆる性質の組み合わせに対応する対象がある。たとえば「歌手である」というただひとつの性質しかもたず、その他の性質をもたない対象がある。この対象には「ドレスを着ている」という性質も「ドレスを着ていない」という性質も適用されない。また、マイノングは「円い四角形」のような不可能な対象もこの分類に含める[86]

マイノング主義者によれば、シャーロック・ホームズやゼウスを述べる文は存在しない対象を指している。そしてそれらの文は、対象が与えられた性質をもつかどうかによって真か偽かが決まる[87]。たとえば「ペガサスには翼がある」という文は、ペガサスが「翼をもつ」という性質を有しているため真である。ただしペガサスは「存在する」という性質を欠いている[88]。マイノング主義の中心的動機のひとつは、「ドナルド・マクドナルドは存在しない」といった単称否定存在命題をどうして真とみなせるかを説明することである。マイノング主義者は、「ドナルド・マクドナルド」のような単称名辞が個物を指していることを認める。そしてその個物が「存在する」という性質を欠いているなら、その存在否定文は真であると考える[89]

マイノング主義は、量化の理解に対して重要な含意をもつ。ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインが擁護した影響力のある見解によれば、量化の範疇は存在する対象に限られる。これは、量化子が「何が存在するか、しないか」という存在論的コミットメント英語版を伴うことを意味する。マイノング主義はこれと異なり、量化の最大の範疇は存在する対象と存在しない対象の両方を含むと主張する[69]

マイノング主義はいくらかの面において論争的であり、実質的な批判も寄せられている。たとえばマイノング主義に対する反論としては、「対象であること」と「存在する対象であること」を区別できないというものがある[88]。また、これに近い批判として「存在しない対象が性質をもつことはできない」というものがある[88]。さらに「あらゆる性質の組み合わせに対応する対象がある」とすれば、「過密な宇宙(overpopulated universe)」が導かれてしまうという批判もある[69]。より具体的には、不完全・不可能な対象があるという発想そのものが退けられることもある[90]

普遍主義

普遍主義(universalism)は、存在が個物の性質であることを認める点でマイノング主義と一致するが、存在しない対象があることは否定する。いわく、存在は普遍的性質(universal property)であり、すべての対象がこれを有する。すなわち、すべてのものは存在する。ある立場によれば、存在は自己同一性(self-identity)と同じである。自己同一律英語版によれば、あらゆる対象はそれ自体と同一であり、自己同一性という性質をもつ。これはとして一階述語論理で記述可能である[91]

普遍主義を支持する影響力のある議論のひとつは、「何かの存在を否定することは自己矛盾である」というものである。この結論は、あるものの存在を否定するためにはその存在者に言及しなければならず、言及できるのは存在する存在者に限られる、という前提から導かれる[91]

普遍主義者は、単称否定存在命題を解釈するためにいくつかの異なる仕方を提案している。ひとつの見解によれば、「ドナルド・マクドナルド」のような虚構的存在者の名は抽象的対象を指しており、たとえそれが時空間に存在しなくても存在している。この見解では、厳密な意味においては「ドナルド・マクドナルドは存在しない」という主張を含め、すべての単称否定存在命題は偽となる。しかし、普遍主義者はこうした文を文脈に応じてやや異なる仕方で解釈することもある。たとえば日常生活において人々が「ドナルド・マクドナルドは存在しない」と言う場合、それはドナルド・マクドナルドが具体的対象として存在しないことを表現しており、その限りでは真である[92]。別の立場によれば、単称否定存在命題は真でも偽でもなく、意味をなさないとされる。なぜなら、それらの単称名辞は何も指していないからである[93]

Remove ads

歴史

要約
視点

西洋哲学

Thumb
プラトンとその弟子であるアリストテレスは、形相と質料がその存在において互いに依存しているかどうかについて意見を異にしていた。

西洋哲学ソクラテス以前の哲学者に淵源をたどることができる。彼らは、宇宙に関する従来の神話的説明を置き換え、存在全体の根本原理に基づく合理的説明を提供しようとした。タレスヘラクレイトスのように、水や火といった具体的原理が存在の根源であると示唆する者もいた。これに対しアナクシマンドロスは反対の立場であり、存在の根源は人間の知覚世界を超えた抽象的原理にあると考えた[94]パルメニデスは存在は根源を有さない、ヌースあるいはロゴスによってのみ理解されうる非時間的なものであり「何かがある」ということは証明されうることでもなければ証明されるべきことでもないとした[95]

プラトンは、異なる種類の存在者には異なる程度の存在があると主張した。影や像は通常の物質的対象よりも弱い意味で存在し、不変の存在であるイデアは最高の存在様式を有すると考えた。また、物質的対象は、イデアの不完全かつ一時的なコピーにすぎないとした[96]

アリストテレスは、形相質料が異なることを認めつつ、形相がより高次の存在を有するという考えには異議を唱えた。むしろ、形相は質料なしには存在できないと主張した[97]。彼は「『ある』は様々な意味で語られる」と述べ、異なる種類の存在者が異なる存在様式を有することを探究した。アリストテレスは実体(ウーシア)とそ付帯性、可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)を区別した[98][注釈 8]

プロティノスのような新プラトン主義者は、実在は階層構造を持つと論じた。彼らは「一者」あるいは「善」と呼ばれる超越的存在があらゆる存在の根源であり、そこから知性が生じ、さらに霊魂と物質世界が派生するとした[100]

Thumb
カンタベリーのアンセルムスは、神の存在証明で知られている。

中世哲学では、カンタベリーのアンセルムスがよく知られる神の存在証明を定式化した。これは、神という概念から神の存在を演繹的に導こうとする試みであり、アンセルムスは神を「思考可能なうちで最大の存在」と定義し、それが心の中だけに存在するのであれば最大の存在ではありえないと論じ、神は存在すると結論づけた[101]

トマス・アクィナスは、あるものの本質と存在を区別した。いわく、本質は対象の根本的性質であり、存在とは別のものである。トマスは、対象が存在するかどうかを知らなくてもその本質を理解できるという観察から、存在は対象の性質には含まれず、別の性質として理解されるべきだとした。さらに彼は「無からの創造英語版」の問題を考察し、真に新しい存在を生み出す力をもつのは神だけであるとした。これらの考えは後にゴットフリート・ライプニッツの創造論に影響を与え、ライプニッツは「創造とは可能的対象に現実存在を与えることである」と論じた[102]

ハイデガーは、アリストテレスの存在論について、《なぜという問い》をしているのではなくて、《存在のしかた》に焦点を当てていると述べ、アリストテレスの形而上学やそれを継承したヨーロッパの形而上学は全て「存在忘却」だと批判した[95]。そしてハイデガーは、それを乗り越えるためには「Sein 存在(あること)」と「Seiende 存在者(あるもの)」について考えなければならない、とした(ontologische Differenz)[95]。これは「存在(ある)」は、存在者として現れることにより、それ自体を隠蔽するという逆説的事態が起きていることを自覚することであり[95]、真理がAnwesen(現前)であるとすれば、真理は隠蔽(など)の非真理と必然的に結びついていることを自覚ことである[95]、とする。かくして「存在(ある)」とは「真理・非真理」(真理であり、同時に非真理であるもの)であり、Abgrund(深淵)、Nichts(無)、Ereignis(呼び求め)、Zeit-Spiel-Raum(時間・戯れ・空間)だ、とハイデガーは言った[95]

東洋

インドにおいては哲学的な探求は、存在に焦点が当てられて行われたわけではないものの[103]、《》の問題と関係する形でしばしば登場することになる[103]。なお、存在に関連する語彙も豊富で、動詞はas, bhu, vrt, vasなどを語根した語彙があり、派生語sat, sattva, satta, astiva, bhava, vrtti, vastuなどがあり[103]、重要な複合語にsvabhava(自性)がある[103]

宇宙のはじまりに思いをめぐらせたヴェーダの詩人たちは、宇宙の始原を、asat 《非有》、sat《有》、あるいは《有》《非有》の両者を包みなおかつそれを超えた「あの唯一」「時間」「ブラフマン」などの至高存在に求めた[103]。彼らの言う《非有》は単なる虚無ではなく、「無限定の混沌」のようなもので、それに対して《有》は秩序であり、satya(真実)とも関係する概念である[103]。インドでは円環的時間の考え方が前面に現れ、それとともに世界の“始原”への関心は薄れ、むしろ変化の根底にある構成原理へと探求の力点が移動した[103]ウパニシャッドの哲人ウッダーラカ・アールニは《有の哲学》を唱え、世界の始原たる《有》は、万物に内在する本質でもあり、その真実へ回帰し覚醒することが求められる、とした[103]。これは解脱指向のアプローチで、存在が充溢し、意識・歓喜などと融合するものである[103]

初期のヴェーダーンタは、開展説によって最高存在と現象界との連続性を保ったが[103]、その後、シャンカラに始まる不二一元論のように、現象界の虚妄性を強調する傾向が主流となった[103]。彼らは、ブラフマンのみをparamarthika-sattva(真の実在)とし、現象界や個我(苦や迷い)は、至高存在についての覚知の欠如(=無明)ゆえに あたかもそれらが実在するかのごとく思っているのであって vyavaharika-sattva(世俗通念)にすぎず、「有とも無とも規定しえないもの」とされた。

(なお、これらの階層的な理解は、仏教における《実有》と《仮有》、あるいは《勝義有》と《世俗有》といった理解のしかたと対応している[103]。)

Remove ads

脚注

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads