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孝懿仁皇后
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孝懿仁皇后(こういじんこうごう、満州語:ᡥᡞᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
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ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ、転写:hiyoošungga fujurungga gosin hūwangheo)は、清の康熙帝の3番目の皇后。姓はトゥンギャ(佟佳)氏(Tunggiya hala)。
経歴
康熙帝の生母の孝康章皇后の弟の佟国維の娘。母は正妻のヘシェリ氏[1]。妹は康熙帝の愨恵皇貴妃。
康熙16年(1677年)、貴妃となった。康熙20年(1681年)、皇貴妃に進んだ。女子を1人産んだが、夭折した。康熙28年(1689年)7月8日、流産[2]で重体となり、9日に皇后に立てられたが、10日に崩じた。「孝懿」と諡された。その後、夫の諡を重ねて「孝懿温誠端仁憲穆和恪慈恵奉天佐聖仁皇后」と加諡された。
子女
- 皇八女(1683年7月13日 - 8月6日)− 夭逝した。名前も位号も与えられておらず、墓もなかった。火葬の後、遺灰を空地に散らした。
伝記資料
- 『清聖祖実録』
- 『清史稿』巻214 列伝一
- 『内務府奏報皇貴妃生女折』
- 『内務府奏報不満月公主病死折』
脚注
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