トップQs
タイムライン
チャット
視点
孝端顕皇后
ウィキペディアから
Remove ads
孝端顕皇后(こうたんけんこうごう)は、明の万暦帝の皇后。姓は王、諱は喜姐(きしゃ)[1]。
生涯
順天府の出身。原籍は紹興府余姚県。従九品文思院副使の王偉の長女として生まれた。万暦5年(1577年)、選抜されて翌年2月に皇后となった。父の王偉は永年伯に封じられた。
真赤の服を好み[2]、後宮の主として聡明かつ謹厳な性格で、極めて有能であった。万暦帝の文書の収集・整理、皇太后たちへの孝事をこなし、太子朱常洛(後の泰昌帝、王皇貴妃の子)を支持し、皇帝の寵妃(鄭皇貴妃)には寬容で、自身に皇帝の寵愛はなくとも皇后の地位を盤石にした。一方で、鬱憤を晴らすために宮女や太監(宦官)たちへの虐待を数多く行い、時には折檻して死に至らしめたと後年、太監劉若愚が『酌中志』で回顧している。
万暦48年(1620年)、万暦帝に先立つこと4カ月にして崩じた。孝端貞恪荘恵仁明媲天毓聖顕皇后の諡号を贈られ、定陵に次代の生母王皇貴妃とともに帝と合葬された。生涯のライバル鄭皇貴妃は立后を謀ったが失敗に終わり、金山への埋葬を余儀なくされた。
中国史上で在位期間が最も長い皇后である(42年) 。
Remove ads
子女
- 朱軒媖(栄昌公主)
脚注
参考文献
登場作品
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads