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孝端顕皇后

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孝端顕皇后
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孝端顕皇后(こうたんけんこうごう)は、万暦帝皇后。姓は喜姐(きしゃ)[1]

概要 王皇后, 在位 ...

生涯

順天府の出身。原籍は紹興府余姚県。従九品文思院副使の王偉の長女として生まれた。万暦5年(1577年)、選抜されて翌年2月に皇后となった。父の王偉は永年伯に封じられた。

真赤の服を好み[2]、後宮の主として聡明かつ謹厳な性格で、極めて有能であった。万暦帝の文書の収集・整理、皇太后たちへの孝事をこなし、太子朱常洛(後の泰昌帝王皇貴妃の子)を支持し、皇帝の寵妃(鄭皇貴妃)には寬容で、自身に皇帝の寵愛はなくとも皇后の地位を盤石にした。一方で、鬱憤を晴らすために宮女や太監(宦官)たちへの虐待を数多く行い、時には折檻して死に至らしめたと後年、太監劉若愚が『酌中志』で回顧している。

万暦48年(1620年)、万暦帝に先立つこと4カ月にして崩じた。孝端貞恪荘恵仁明媲天毓聖顕皇后諡号を贈られ、定陵に次代の生母王皇貴妃とともに帝と合葬された。生涯のライバル鄭皇貴妃は立后を謀ったが失敗に終わり、金山への埋葬を余儀なくされた。

中国史上で在位期間が最も長い皇后である(42年) 。

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子女

  • 朱軒媖(栄昌公主)

脚注

参考文献

登場作品

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