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宇治駐屯地
京都府にある陸上自衛隊の駐屯地 ウィキペディアから
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宇治駐屯地(うじちゅうとんち、JGSDF Camp Uji)は、京都府宇治市五ヶ庄官有地に所在し、陸上自衛隊関西補給処等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。分屯地として祝園分屯地が隷属する。
概要
陸上自衛隊関西補給処長が宇治駐屯地司令を兼務する。本駐屯地には会計隊および駐屯地業務隊が編成されず、陸上自衛隊関西補給処がそれらの業務を行う。
地理
宇治駐屯地が所在する宇治市は京都盆地の東南部に位置し、京都市や大津市などに接しており、面積は約67万K㎡、人口約19万人の京都府南部の中核都市である。面積は約12万坪で、甲子園球場約10個分の広さがある。
歴史[1]
1894年(明治27年)11月、日清戦争を契機に旧陸軍 造兵廠宇治火薬製造所として発足した。
日露戦争後には、火薬製造所の分工場が設置されており、太平洋戦争終戦まで多種多様な火薬類の製造を行っていた。現在の京都大学宇治キャンパス、黄檗山一帯を含めた火薬製造所の総面積は、現在の宇治駐屯地の約3倍であり、従業員も約4,700名がいた。
終戦後は、米軍に接収され、1947年(昭和22年)からは日本薬品化成会社が農薬等を生産していたが、1949年(昭和24年)に同会社が閉鎖され、その後、敷地は国に返還された。
1951年(昭和26年)に警察予備隊宇治管理補給部隊が警察予備隊唯一の管理補給部隊として設立され、幾多の変遷を重ね、1954年(昭和29年)に陸上自衛隊関西地区補給処として改編され、1980年(昭和55年)にほぼ現在の体制が確立した。
1998年(平成10年)には、補給統制本部の新編に伴い陸上自衛隊関西補給処と名称が変更され、2004年(平成16年)には後方支援体制の見直しに伴い、物品別から機能別の編成となり、現在に至っている。
広報施設
広報資料館として使用されている彰史館は、1895年(明治28年)4月に陸軍砲兵廠宇治火薬製造所の所長室等として建てられたもので、木造の平屋建てで中央に東西に伸びる廊下があり廊下を挟んで北側に17畳の部屋が1部屋、南側に27畳、9畳、17畳の部屋があり、2004年(平成16年)11月までは処長室として使用されていた。 第1から第3展示室があり各部屋ごとに各種資料を展示している。
第1展示室
宇治火薬庫から宇治火薬製造所に係る資料を展示。
第2展示室
創立70周年記念行事の成果 、能登半島地震災害派遣の景況を展示。
第3展示室
終戦後から現在に至るまでの関西補給処の変遷を展示。
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沿革
日本陸軍大阪陸軍砲兵工廠宇治火薬製造所
- 1894年(明治27年)11月:「大阪陸軍砲兵工廠宇治火薬製造所」が宇治に発足[2]
- 1937年(昭和13年)8月17日:火薬製造所が爆発、午後11時過ぎから翌日未明にかけて3度の爆発が起こり、火薬を製造していた5工場全滅。周辺の民家への被害は全焼も含め856戸。重軽傷22人[3]。
アメリカ軍
日本薬品化成会社
- 1947年(昭和22年):日本薬品化成会社が農薬等を生産。
- 1949年(昭和24年):日本薬品化成会社が閉鎖。その後、敷地は国に返還された。
警察予備隊宇治駐屯地
保安隊宇治駐屯地
陸上自衛隊宇治駐屯地
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駐屯部隊
中部方面隊隷下機関
- 関西補給処本処
中部方面隊隷下部隊
- 中部方面システム通信群
- 第104基地システム通信大隊
- 第318基地通信中隊(一部)
- 宇治派遣隊
- 第318基地通信中隊(一部)
- 第104基地システム通信大隊
防衛大臣直轄部隊
- 中部方面警務隊
- 第131地区警務隊(一部)
- 宇治連絡班
- 第131地区警務隊(一部)
最寄の幹線交通
脚注
外部リンク
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