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安達盛宗

鎌倉時代中期の武将 ウィキペディアから

安達盛宗
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安達 盛宗(あだち もりむね)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人安達氏の一族で、安達泰盛の子。

概要 凡例安達盛宗, 時代 ...

生涯

北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第8代執権北条時宗より偏諱を受けて盛宗と名乗る[注釈 1]

建治3年(1277年)6月19日、検非違使に任官されて武家の正装白襖(直垂)で出仕する。

文永の役の後、再度の蒙古襲来に備えて建治2年(1276年)に父・泰盛が守護となった肥後国守護代として盛宗が九州に下向し、弘安4年(1281年)6月の弘安の役で現地の武士達の指揮官を務め、弘安8年(1285年)正月に泰盛による弘安徳政で戦後処理のために設置された「鎮西特殊合議訴訟機関」(鎮西探題の前身)での実務にあたった。

同年11月17日、泰盛と内管領平頼綱の対立による霜月騒動で安達一族が滅ぼされると、北九州にいた盛宗は少弐景資と共に岩門城に籠もり、頼綱方である景資の兄・少弐経資の軍勢と戦って敗死した(岩門合戦)。

蒙古襲来絵詞』には、季長の軍功報告を受ける盛宗の姿が描かれている。

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弘安の役で季長の戦功報告を受ける盛宗
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脚注

関連項目

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