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少弐経資

鎌倉時代中期の武将・御家人。少弐氏3代。鎌倉幕府 筑前・筑後・豊前・肥前・肥後・対馬守護。子に少弐時経 (志賀氏)、少弐貞資。 ウィキペディアから

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少弐 経資(しょうに つねすけ)は、鎌倉時代中期の武将御家人少弐資能の子。少弐氏3代当主。

概要 凡例少弐 経資, 時代 ...

概略

経資の「経」字は、鎌倉幕府第4代執権北条経時偏諱と考えられ、経時に同字を与えた4代将軍藤原頼経出家する寛元3年(1245年)から、経時が亡くなる同4年(1246年)の間に元服を遂げたと推測されている[2]。経資の生没年については、1229年1292年説、1226年1289年説などがある[4]が、元服は10代で行うのが通例であるから、前者が正しいとされる[2]

父の存命中から共に北九州の統治に当たり、元寇に際しては異国警固体制を整え、の使者への対応や九州御家人たちの指揮、石築地の築造工事の統括、蒙古合戦の勲功配分とその調査などを行った。史料上での初見はかなり遅く、40歳となる文永6年(1269年)9月付の文書[5]である。

文永11年(1274年)の元寇(文永の役)では、経資の弟・景資が日の大将として日本軍を指揮していたが、この時の経資の動向に関する史料は無く、詳細は不明。45歳となる同11年8月までに大宰少弐に任官[6]。文永12年(1275年)、父から家督と所領を譲り受ける。

弘安4年(1281年)の元寇(弘安の役)における壱岐島の戦いでは、負傷しながらも元軍を相手に奮戦して勝利し、壱岐島から蒙古軍(東路軍)を駆逐した。しかしこの戦いで、子・資時を失う。この時の活躍に関しては『蒙古襲来絵詞』に描かれている。

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鎮西奉行・少弐経資、薩摩守護・島津久経らの兵船。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵15・第19紙

その後も大友頼泰と共に鎮西奉行の一人として、九州の軍政にあたった。

弘安7年(1284年)、8代執権北条時宗が死去したのを契機に出家し、浄恵と号した。翌年の霜月騒動では平頼綱側に与して、安達泰盛側に与した弟の景資と泰盛の子・安達盛宗を討ち取った(岩門合戦)。この戦いの結果、北条得宗家の鎮西支配が強化されて、少弐氏の勢力は削られ、筑後・豊前・肥前・肥後の守護職を失った。

弘安9年(1286年)、鎮西談議所の奉行に大友頼泰宇都宮通房渋谷重郷と共に任じられる。正応5年(1292年)に死去。

長男・資時は弘安の役で戦死したため、家督は盛経が継いだ。また、盛経の弟・時経盛氏は、その子孫がそれぞれ志賀氏平井氏となる。

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脚注

参考文献

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