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安金全

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安 金全(あん きんぜん、生年不詳 - 930年)は、末から五代十国時代にかけての軍人沙陀部の出身[1]

経歴

代々辺境の将軍をつとめた家に生まれた。若くして勇猛果断で、騎射を得意とした。河東節度使の李克用が騎将となると、金全はその征討に従った。晋王李存勗の下で潞州を救援し、河北を平定するのにあたって、いずれも戦功を挙げた[2][3]後梁と対陣すると、梁軍の斥候をよく捕らえたので、「安五道」と恐れられた[4]天祐8年(911年)、柏郷の戦いにおいて李嗣源の下で梁軍を挟撃して破った[5]。天祐10年(913年)、周徳威の命を受けて、武州を救援した[6]。のちに老病のため太原府に隠居した[2][3]。天祐13年(916年)、後梁の将の王檀が3万の兵を率いて、李存勗の留守に乗じて、太原府に来襲してきた。金全は監軍の張承業の許可を受けて武装すると、子弟や引退した諸将数百人を率いて夜間に北門を出て、羊馬城内で梁軍を攻撃して驚倒させた[2][3]。天祐14年(917年)、新州刺史として契丹の攻撃を受けて敗れ、新州城を棄てて逃走した[7]

天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、金全は同平章事・振武軍節度使となった。在任すること2年、民衆の統治はうまくいかず、洛陽に召還された[8][9]長興元年(930年)6月12日、病没した[10]

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家族

  • 父:安山盛(朔州牢城都校)[1]
  • 兄:安金祐
  • 子:安審暉[11]
  • 子:安審琦[12]
  • 甥:安審通(安金祐の子)[4]
  • 甥:安審信(安金祐の子)

脚注

伝記資料

参考文献

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