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宏智正覚
中国の宋代の禅僧 ウィキペディアから
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宏智正覚(わんし しょうがく)は、中国の宋代の曹洞宗宏智派の禅僧。隰州(山西省)隰川県の出身。俗姓は李。別称は天童正覚(てんどうしょうがく)[1]。天童山に30年住し、黙照禅を禅の正統と主張、臨済宗大慧宗杲の公案を用いた看話禅と法論を繰り広げ、当時の二大禅門と称された。諡号は宏智禅師。
略歴
元祐6年に、隰州(山西省)隰県の李氏に生まれる。11歳の時に浄妙寺の本宗に就いて得度。14歳で慈雲寺の智瓊に具足戒を受ける。枯木法成、次いで丹霞子淳に歴参す。宣和6年(1124年)、普照寺の住職となり、丹霞子淳を嗣ぐ。太平寺、雲居山、長蘆山を歴住し、建炎3年(1129年)に天童山に入り、30年近く住職となり、同山を復興。天童山中興と称される。杭州霊隠寺にも招かれて滞在する。 紹興27年10月8日、67歳で遷化。
臨済宗・大慧宗杲との法論
臨済宗に属した大慧宗杲と、真の禅法をめぐって激しく対立した。正覚は、仏性は本来的にすべての者に具有されており、坐禅すること自体が坐禅の目的であるような自己完結的な禅法の中でその事実に気付くことこそが悟りの要であるとして、公案を用いない曹洞宗の禅法を擁護した。対立する宗杲は、公案を用いることによって言語による思考を限界に追い詰め、そこに大きな疑問を抱えつつ坐禅して言語を超越した悟りへと向かうという禅法を正しいものと認めたので、正覚はこれを「看話禅」と呼んで批判した。
当時の中国社会では、宗杲の理論が支持を受け、臨済宗が大いに隆盛することとなったが、曹洞宗も続き、両宗は日本から栄西や道元らの留学僧を迎えて日本にも伝わり、それぞれ公案禅と只管打坐という形で現在も受け継がれている。
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語録等
- 『宏智覚禅師語録』4巻
- 『宏智覚禅師広録』9巻
- 『宏智禅師語録』6巻
- 『宏智覚禅師坐禅箴』1篇
- 『天童百則頌古』
従容録
参考文献
- 『新版 禅学大辞典』(1985年、大修館書店)p.532,p.1327
脚注
外部リンク
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