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定気法
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定気法(ていきほう)とは、二十四節気を配置する方法の一つである。
概要
要約
視点
平気法のように1太陽年を同じ長さの時間に24等分するのではなく、太陽の天球上の通り道である黄道を24等分した点をもとにして、節気(正節)と中気を定める。
すなわち、黄道と天の赤道の交点の一つ春分点を基点として24等分した点を太陽が通過する日時に節気(正節)と中気を交互に配していく。中気は黄経30度の倍数、正節はそれに15度を足した点を通過する瞬間である。
平気法が時間をもとにした分割であるのに対して、定気法では空間に基づいた分割である。太陽の速度(つまり、地球の公転の速度)は一年を通じて一定ではないから、この二つの方法は一致しない。
定気法は太陽の位置を用いて定められているので、太陽の動きとの関係は分かりやすくなっている。例えば、春分・秋分は太陽が真東から昇り、真西に沈む日となる[1]。歴史的にも隋唐以降、天文学的な計算では、定気やそれに対応する考え方が使われている(くわしくは、「歴史」の節を参照)。
ただし、太陰太陽暦においては、太陽の動きだけでなく、月の動きにも配慮して暦を作る。月の満ち欠けを基準にして各々の月の期間を定め、季節との一致を考慮して、二十四節気と一定の関係を保つように月の名前を割り振ってきた。この調整が定気法では複雑になった上に、従来は避けられてきたパターンを許容せざるを得なくなった。また、例外的な対応を迫られるケースも、稀にではあるが生じる(旧暦2033年問題参照)。
すでに説明したように、定気法では節気から節気までの日数が不均等になる。冬至ごろには地球が公転軌道上の近日点に位置するため、太陽が黄経上の15度を移動する速度がやや早くなり、節気間の日数は14日余りとなる。一方、夏至ごろには太陽の移動速度がやや遅くなり、節気間の日数は16日余りとなる。
平気法ではすべての中気が太陰太陽暦における月と対応し、中気を含まない月を必ず閏月とすることができる。しかし、定気法を採用するとこれは不可能になる。節気間の日数が不均等なためひと月の中に中気が2回含まれることがあり、その分中気を含まない月が多くなる。そのため、いくつかの月が中気を含めばよいと定義しなければ欠月ができるので、中気を含まない月であっても閏月とは限らない(旧暦2033年問題参照)。冬には正節間の日数が1朔望月に近くなる(あるいは更に短くなる)ため、中気の日付は月が変わってもほとんど変化していかない。このため次に示すように、冬に閏月が設けられる可能性は低い。一方で夏前後には節気間の日数が一気に増えるので月ごとに中気がずれていき、閏月が生じる可能性が高くなり、閏5月が最も多く存在している。
1844年(天保15年)の天保暦制定から2100年までの間で、閏9月、閏10月、閏11月、閏12月、閏正月が出現するのは以下の通り。
- 1870年:閏10月
- 1889年:閏12月
- 1984年:閏10月
- 2014年:閏9月
- 2033年〜2034年:旧暦2033年問題。日本カレンダー暦文化振興協会の見解で推奨する案は2033年閏11月としており、それが有力だが、他にも2033年閏7月あるいは2034年閏正月となる可能性もある。
22世紀以降も見ると、定気法では珍しい閏月については以下のように計算されている。
- 次に閏10月が出現するのは2166年となる見込み。
- 日本カレンダー暦文化振興協会の見解で推奨する案によって、2033年を閏11月、2147年を閏11月、2223年を閏9月、2242年を閏11月とした場合、次に閏正月が出現するのは2262年となる見込み。
- 閏12月に至っては、天保暦の置閏ルールでうまく決まらない場合に時憲暦の置閏ルールを適用するとした場合、今後数千年間は出現しないと考えられ、次回いつ出現するのかは計算における精度の関係もあってはっきりしていない。ただ、天保暦の置閏ルールでうまく決まらない場合に解釈により閏12月を入れ得るパターンは今後数千年間の間にも発生するが、時憲暦の置閏ルールを適用すれば閏12月にならないパターンばかりである。
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歴史
定気法が頒布される暦の注暦に採用されるのは、中国では清の時憲暦、日本では江戸時代の天保暦からである。ただし、「定気」の用語は隋唐のころからあり、定気に基づく節気(正節)と中気の計算方法も知られていた。
太陽の黄道上の運行速度が一定でないこと(日躔/日行盈縮)は、古代メソポタミアから知られていたが、中国においては、南北朝時代の張子信によってはじめて見いだされたが[2]、理論の詳しい内容は残っていない。現存する中では、隋の劉焯の皇極暦の日行盈縮の理論がもっとも古い。これは、『隋書』律暦志に詳しく記されており「定気」という言葉の初出でもある[3]。皇極暦は正式な暦として採用されなかったが、後世への影響は大きく、隋末の大業暦以降の暦では日行盈縮の計算方法が必ず与えられている[4]。皇極暦の他、唐で二番目に編纂された暦である麟徳暦から、最後の崇玄暦までの全ての暦では、定気の日数が明記されている。
しかし、配布される暦に記される注暦では平気法が用いられ続けた[5]。例えば、唐の大衍暦の暦議では、「凡推日月度及軌漏、交蝕,依定氣;注歷,依常氣。」としている[6](「常気」とは平気法のこと)。また、崇玄暦からは、暦の内部でも平気法が軸になっているが[7]、これは計算方法の変化によるもので、日行盈縮が忘れられたわけではない。後の明の時代の大統暦においても、昼夜の長さの等しい日が平気法の秋分や春分とは別に、頒布される暦に記されていた[8]。
明末に西洋天文学が紹介されたとき、新暦推進派は、定気を新暦の長所の一つとし、平気と新暦の定気に二、三日の差が出ることをもって、定気による二十四節気が「合天」であると主張した。対して、旧法を主張する側は、大統暦にも日行盈縮の計算方法が備わっていること、また従来の置閏法が定気には通じないことを指摘した。後者については、新暦側はあらたな置閏法を提示した[9]。
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定気法と平気法の比較
要約
視点
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参考までに、2021年〜2022年および2033年〜2034年の二十四節気について、定気法と平気法による日時(形式:月-日 時:分)を一覧にした(時刻は日本中央標準時)。
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脚注
参考文献
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