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宝生座 (名古屋市)

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宝生座(ほうしょうざ)は、かつて愛知県名古屋市中区大須2丁目にあった芝居小屋

概要 宝生座, 情報 ...

1883年(明治16年)7月、初代宝生座が大須観音境内に建てられた。1892年(明治25年)3月22日には大須大火の火元となって焼失し、1893年(明治26年)に2代目宝生座が再建された。1936年(昭和11年)2月10日にも火災で焼失し、同年秋に鉄筋コンクリート造で3代目宝生座が再建された。1969年(昭和44年)4月30日に休館し、1971年(昭和46年)3月に廃館となった。名古屋市最後の芝居小屋とされる。

歴史

竣工

明治期の名古屋市における芝居小屋の歴史を見ると、1873年(明治6年)には本重町に新守座(後の中京劇場)が建てられ、1880年(明治13年)には大須に真本座が建てられたが[1]、真本座は後に南桑名町に移転して千歳座(後の千歳劇場)となっている。1883年(明治16年)7月、大須の大須観音境内に宝生座が建てられた[2]。同年には末広町末広座(後の松竹座)も建てられている[1]

大須大火

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大須大火で大須観音五重塔が焼失する図

1892年(明治25年)3月22日、宝生座は大須大火の火元となった。午前8時30分[3]、宝生座の脇から出火すると、強風にあおられて周辺の建物に類焼した[4]。発見者は宝生座の小屋番であり、当時の宝生座では芝居『鬼一法眼』の3幕目に入っていた[5]。大須観音の本堂、五重塔、仁王門、庫裏など、料理屋、貸茶屋など、計134棟が焼失する大火となった[4]。宝生座の楽屋において、大部屋の衆が博打中に喧嘩を起こして乱闘となり、ランプの灯が障子に燃え移ったことが火災の原因である[4]

戦前の歴史

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五代目尾上菊五郎

1893年(明治26年)に再建され、五代目尾上菊五郎を迎えて杮落しを行うと、六代目尾上菊五郎も子役として壇上に立っている[6]。繁華街である大須は幾度もの大火に見舞われており、1905年(明治38年)2月23日午前3時、大須観音の仮堂から出火する火災があった[3]。この火災では五明座など13棟が焼失した[4]

戦前においては、御園座や新守座などの一流の芝居小屋よりも入場料が安かった[7]。後に大物となる歌舞伎役者も、駆け出しの頃には宝生座に出演した人物がいた[7]。1936年(昭和11年)2月10日の朝に火災で全焼すると、伏見町筋(後の伏見通)を幹線道路とする都市計画案があったことから、建坪を半分近くに縮小した上で鉄筋コンクリート造で再建された[7]。1936年(昭和11年)秋、関西歌舞伎の三代目阪東壽三郎一座でこけら落とし興行を行った[7]

戦後の歴史

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月19日にあった名古屋大空襲では焼失を免れ[8]、同年11月に営業を再開した[6]。戦後すぐの時期には宝生座の西側に伏見通が開通した。

1969年(昭和44年)4月30日には一時休館となり[9]、1971年(昭和46年)3月に廃館となった[10]。名古屋市最後の芝居小屋だったとされる[11]

跡地にはまず大須サウナが開設された[12]。2016年(平成28年)には跡地にホテルアベスト大須観音駅前が竣工した。

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脚注

参考文献

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