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室点蜜
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室点蜜(呉音:しちてんみつ、漢音:しつてんびつ、拼音:Shìdiǎnmì、? - 576年頃)は、突厥の西面可汗もしくは葉護(ヤブグ:官名)。吐務の子で、伊利可汗の弟、達頭可汗の父。また室點蜜[1]、室點密可汗[2]とも表記される。姓は阿史那氏、別名は瑟帝米(しつていべい)という。東ローマ史料のディザブロス(Dizaboulos)[3]、ディルジブロス(Dilziboulos)[4]、シルジブロス(Silziboulos)[5]、アラブ史料のシンジブー(Sinjibū)[6]、突厥碑文のイステミ・カガン(
- Istemi qaγan)[7]に当たる人物とされている。
生涯
突厥部の大葉護である吐務の次男として生まれる(長男は伊利可汗)。
558年、室点蜜は彼の同盟者であり娘婿でもあるサーサーン朝の君主(シャーハンシャー)ホスロー1世と協同で、エフタルを攻撃し徹底的な打撃を与えた。これによって室点蜜はエフタル領であるシャシュ(石国)・フェルガナ(破洛那国)・サマルカンド(Tamir-qapiγ、康国)・キシュ(史国)を占領した。さらにこの頃、室点蜜はアヴァールを駆逐し、アランの地に追いやった。
567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ(安国)・ウラチューブ(曹国)・マイマルグ(米国)・クーシャーニイク(何国)・カリズム(火尋国)・ベティク(戊地国)を占領した。この頃、室点蜜はサーサーン朝にソグド人使節団を派遣し、絹を売る許可を要求した。しかし、ホスロー1世はこれを拒否し、使者を毒殺したため、室点蜜はこれに怒り、突厥とサーサーン朝の関係は悪化した。
568年、室点蜜は東ローマ帝国にソグド人首領マニアクの使節団を派遣し、エフタル攻滅の報告と、絹貿易の盟約をかわした。その使節団の帰路に東ローマ帝国のゼマルコス使節団が同行し、突厥の領土を見聞した。
575年末、室点蜜は使者のアナンカステスを東ローマ帝国へ送ったが、その直後に亡くなり、東ローマ帝国からウァレンティヌスの率いる使節団が来た時には彼の葬儀が行われていた。室点蜜の死後、子の玷厥(てんけつ)が継いで、達頭可汗(タルドゥ・カガン)となった。
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中国史書における室點密、室點蜜
突厥碑文におけるイステミ・カガン(Istemi qaγan)
上に蒼色なる天、下に褐色なる地の創られしとき、二つの間に人の子生まれたり。人の子の上に、我が祖宗ブミン・カガンとイステミ・カガンと坐したり。(この二人)坐して、突厥の民の国と法とを保ち終えたり、造り終えたり。四方すべて敵なりき。(彼ら)軍旅ひきいて、四方なる敵をすべて奪いたり、すべて服せしめたり。 — 『ホショ・ツァイダム碑文』
東ローマ史料におけるディザブロス
要約
視点
かつてはエフタル人の支配下にあったが、当時勢力を強化していたトルコ人に従っていたソグディアナ人は、ペルシアへ行って絹を売る許可を得るために、ペルシアに使節を派遣することを君主に請願した。ソグディアナ人に使節派遣を説得されて、ディザブロス(Dizaboulos)はこれを承認した。…(省略)…(使節団はペルシアに通商を断られ、絹を燃やされたことを)ディザブロスに報告した。しかし、ディザブロスはその後もなお友好関係を結ぼうと、第二の使節団をペルシアに送った。…(省略)…(またも断られた上、使節団の大部分を毒殺し、気候のせいで死んだと偽ったことに対し)ディザブロスはこの事件を見抜いて、使節たちが謀殺されたのであると信じた。ここにペルシアとトルコの間の、敵対関係が由来するのである。…(省略)…(ソグディアナ人の首領マニアクの建議により)ディザブロスは(東)ローマ皇帝への挨拶と、高価な絹の贈り物と、2,3の書簡を持たせ、彼(マニアク)と他数名の使節を(東)ローマ皇帝へ派遣した。 — メナンドロスの記録 第18節
…(省略)…(トルコと攻守同盟を結んだ東ローマ帝国は友好の使節としてキリキアのゼマルコス(Zemarchos)をトルコへ派遣した。)使節たちは可汗が住んでいるエクタグ(Ektag)[15]と呼ばれる山に向かって出発した。この山はギリシア語でちょうど「金の山」という意味である。そして彼らが到着したところは、この金の山に囲まれた谷の中の、ディザブロスの牙帳であった。ゼマルコスとその従者たちがそこに到着すると、直ちにディザブロスの前へ通された。ディザブロスは天幕の中で、二輪の車つきの金の椅子に腰をかけていた。いざという時には、その椅子が馬の前にひいてこられるのであった。ゼマルコスはこの異国人に、彼らの作法どおりに挨拶をした後、贈物を差し出した。…(省略)…このようにゼマルコスが挨拶を済ませると、ディザブロスも身体を曲げて挨拶をした。次いで彼らは宴を催し、天幕の中で一日中酒盛りをして過ごした。その天幕はさまざまな色を巧妙に織りこんだ絹地で内部を覆ってあった。彼らは酒をよく飲んだ。だがそれはわれわれの酒のように、葡萄から搾ったものではなかった。彼らの国は葡萄を生産しないからで、そのような方法は彼らのもとでは行われていないのである。しかしそこには、葡萄の搾り汁に似た、異国風な酒が満ちていた[16]。彼らは自分たちの宿に行った。その翌日、彼らは他の天幕に集まった。それはすべて絹で覆われ、装飾が施されていた。そこにはまたいろいろな形の立像があった。ディザブロスは純金の椅子に座り、天幕の中央には金の酒杯と壺、さらには金のジョッキも置かれていた。…(省略)…翌日、彼らはもう一つの異なった天幕に集合した。その天幕は金で覆われた木製の円柱に支えられ、同様に金でつくられた寝床は、4匹の孔雀に支えられていた。部屋の間の部分には、車が長い列をなして陳列され、その中に非常に多くの銀器や皿、鉢などが置かれていた。さらにまた、同じように銀で作られた動物の像も多数あった。…(省略)…ゼマルコスの従者たちがまだそこに留まっている間に、ディザブロスは「ゼマルコスと彼の20名の従者はペルシアに対する自分の戦役に参加するように、その間、残りのローマ人は、コリアト人の国に戻って、ゼマルコスの帰還を待つように」と命じた。進軍中、ディザブロスは彼らを解放し、贈物をして喜ばせた。また彼はゼマルコスを褒めて、いわゆるケルキス[17]から捕えた一人の女奴隷を与えた。…(省略)…彼らがちょうどタラス(Talas)という場所で止まった時、ペルシアの使者がディザブロスを迎えた。そして彼らと一緒に自分たちのところで食事をするように、ローマの使者たちも招待した。さて彼らがペルシア人の所へ行った時、ディザブロスはローマ人たちに敬意を表し、名誉ある位置を彼らにとらせた。つづいて彼はペルシア人に、彼らの不正を聞き知り、彼らと戦うために来たのであると、強く非難をあびせた。そしてディザブロスがだんだん罵言を弄するようになると、ペルシアの使者は、宴においては静粛を守るという大切な習慣を無視して、激しく話しはじめた。その中で彼は大胆にディザブロスの非難を突っぱねたので、いあわせた人々は彼の怒りにひどく驚いた。…(省略)…その宴は中止され、ディザブロスはペルシアに向かう準備をした。また彼はゼマルコスとその従者たちを集め、ローマ人との友好関係を今一度固めた後、彼らを故国へ帰らせた。 — メナンドロスの記録 第20節
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イスラム史料によるシルジブー
ホスロー・アヌーシールワーン(Chosrau Anōšarwān,531-578)はハザール(Chazar)、ブルガール(Bulgar)、バランガール(Balangar)、アラン(Alan)の攻撃に対してチョル(Čor)の街道(ダレイネの街道、デルヴェント)に防壁を設けた。こうして彼はハザール、ブルガール、バランガール、アランの最高支配者シルジブー(Silğibū)の要求した(以前ペルシア帝国が)それらの部族に支払っていた例年金を拒否することができると思った。
— タバリー『諸使徒と諸王の歴史』
脚注
参考資料
外部リンク
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