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専光房良暹
平安時代末期から鎌倉時代初期の僧 ウィキペディアから
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専光房 良暹(せんこうぼう りょうせん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。専光坊 良暹ともされる。伊豆山走湯権現(伊豆山神社)の僧侶で、源頼朝の師僧とされ、頼朝の要請により鶴岡八幡宮の臨時別当を務めた。
同時代には同名の智蔵坊良暹という僧もおり、同一人物か別人かははっきりしないが、辞典類では同一人物としているものもある[1]。
『吾妻鏡』の記述
『吾妻鏡』には以下の記録がある。
- 治承4年(1180年)
- 寿永元年(1182年)
- 文治5年(1189年)
- 7月18日、奥州征伐出発前、頼朝は走湯権現に戻っていた専光房を呼び出し、奥州征伐のため秘かな願いがあるとし、持戒清浄なる専光房が留守中の鎌倉で戦勝の祈祷を行うこと、奥州へ向け出発して20日経ったら守り本尊である正観音像を安置する観音堂を御所の裏山に建てること、その際、大工には依頼せずに専光房自身の手で柱を立てることを命じた。
- 8月8日早朝、専光房は御所の裏山によじ登り、柱を4本建てて観音堂を建て始めた。頼朝とは出陣してから20日後と約束していたが、夢のお告げがあったのでこの日に執り行った。この日は、はじめて奥州藤原氏と対峙した阿津賀志山の戦いが始まった日で、『吾妻鏡』は「なんとも不思議な出来事である」と伝えている。
- 建久3年(1192年)
- 12月11日、出家するため伊豆山走湯権現へ向かった熊谷直実に対し、驚いた頼朝は、出家を思いとどまらせるよう走湯権現の専光房にその旨を命じた。上洛をさかんに引き止め、思いとどませるが、断念させることは無理と考え、純粋に仏道を求めるのみであり、謀反の意志が全くないということを鎌倉に報告した。
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梶原神社・早馬神社縁起や仙台藩編纂地誌の記述
梶原神社・早馬神社縁起や、仙台藩編纂地誌『奥羽観蹟聞老志』『封内風土記』『封内名跡志』『風土記御用書出』によると、俗名は梶原景実(かじわら かげざね)。梶原景時の兄で、梶原専光坊僧正景実。伊豆山走湯権現(伊豆山神社)の僧侶で、源頼朝の師僧であった。頼朝の要請により鶴岡八幡宮の臨時別当を務め、晩年に梶原神社、早馬神社を創建したとされる。梶原神社、早馬神社には鎌倉初期の懸仏が祀られている。
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脚注
参考文献
外部リンク
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