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小寺政隆
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小寺 政隆(こでら まさたか)は、戦国時代の武将。小寺氏の当主。播磨姫路城主、御着城を築城した。
人物
播磨姫路城主・小寺豊職(とよもと)の嫡男として生まれる。延徳3年(1491年)父・豊職が死去すると、小寺氏の家督は嫡男の政隆が継承する。その後、政隆の代に小寺氏は勢力を大きく伸張させる。
政隆は永正16年(1519年)、新たに御着城を築いてそこに居を移し本拠地とした。これは、同じく主君の赤松家重臣で主家をしのぐ勢力となりつつあった、西の浦上氏に対する防御の為に築かれたものであった。この御着城は後に、若き黒田官兵衛が過ごした城としても知られ、三木城や英賀城と共に播磨の三大城郭と呼ばれている。
主君の赤松義村が下剋上により、浦上村宗に暗殺されると、その遺児である赤松晴政を援助する。しかしながら、享禄3年(1530年)播磨庄山城に詰めていた政隆は浦上村宗に攻められて戦死している。
参考文献
- 御着史跡保存会 編『播磨御着郡誌』
- 橋本政次『姫路城史』
- 渡邊大門「戦国期小寺氏に関する一考察 」『播磨学紀要』第16号
関連項目
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