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小山田古墳

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小山田古墳(こやまだこふん)は、奈良県高市郡明日香村川原にある古墳。形状は方墳。史跡指定はされていない。

概要 小山田古墳, 所在地 ...

第34代舒明天皇の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか)」や、蘇我蝦夷の墓の「大陵(おおみささぎ)」に比定する説がある。

概要

奈良盆地南縁、丸山古墳と明日香村大字岡を結ぶ道路北側の、低丘陵南面に築造された巨大方墳である。近年発見された埋没古墳であり、現在の古墳域には奈良県立明日香養護学校が立地する。これまでに数次の発掘調査が実施されている。

墳形は方形。一辺は東西で72メートル(北辺)・80メートル超(南辺)、南北で推定70メートルを測り、飛鳥時代の方墳としては最大規模になる[注 1][1]。埋葬施設は横穴式石室と見られ、石室羨道跡(南方に開口)が検出されている[2]。羨道幅は2.6メートルを測り石舞台古墳(2.1-2.6メートル)と同程度で谷首古墳桜井市阿部、1.7メートル)を上回るほか[2]、羨道長さは8.7メートル以上を測り石舞台古墳(11.7メートル)級と推測される[3]。羨道入り口(羨門)は判明したが玄室部分は未判明であり(推定古墳域の中央部が発掘されたが遺構は未判明)、石室の全体規模は未だ明らかでない[3]

この小山田古墳は、出土土器から古墳時代終末期・飛鳥時代中頃の7世紀中頃(特に640年代)の築造と推定される[2]。下層では6世紀後半の集落跡が認められており、築造の際にはその集落を潰したと見られるほか、築造後の7世紀後半にはすでに掘割の埋没が認められる[2]。被葬者としては、舒明天皇の初葬地とする説のほか、蘇我蝦夷の墓とする説が挙げられている[4]。なお、付近では菖蒲池古墳橿原市菖蒲町)などの古墳の分布も知られる[5]

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遺跡歴

  • 明治期、畑地として利用[6]
  • 1972年度(昭和47年度)、「小山田遺跡」の遺跡名称で第1次発掘調査[2]
  • 1989年度(平成元年度)、第2次発掘調査[2]
  • 1995年度(平成7年度)、第3・4次発掘調査[2]
  • 2014年度(平成26年度)、第5・6次発掘調査。掘割・板石積みを検出し、古墳の可能性が浮上(奈良県立橿原考古学研究所[2][5]
  • 2015年度(平成27年度)、第7次発掘調査。大規模な造成跡を確認(奈良県立橿原考古学研究所)[2]
  • 2016年度(平成28年度)、第8次発掘調査。横穴式石室跡を検出、古墳と確定して遺跡名称を「小山田古墳」に変更(奈良県立橿原考古学研究所)[2][4]
  • 2017年度(平成29年度)、第9次発掘調査。石室羨道を確認(奈良県立橿原考古学研究所)[3]
  • 2018年度(平成30年度)、第10次発掘調査。東西の南辺が80メートル超と判明(奈良県立橿原考古学研究所)[1]
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被葬者

小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか[7]/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]

Thumb
丘陵左に菖蒲池古墳(樹叢)
右に小山田古墳(明日香養護学校)

一方、本古墳を蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵(おおみささぎ)」に比定する説もある[5]。『日本書紀』によれば、蘇我蝦夷は皇極天皇元年(642年)[原 4]に「双墓」を今来に造り、蝦夷の墓を「大陵」、子の入鹿の墓を「小陵」と称したほか、皇極天皇3年(644年[原 5]に「甘檮岡(甘樫丘)」に邸を建て、皇極天皇4年(645年[原 6]に滅ぼされて屍は墓に葬られた(乙巳の変[4]。この蘇我蝦夷の墓に比定する説では、蘇我蝦夷が当時に天皇と並ぶ権勢を誇った大豪族である点、当地が甘樫丘に近い場所である点、西隣の菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」と見なせる点が指摘される[5][4]

脚注

参考文献

関連項目

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