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小指敦子

日本のファッション・ジャーナリスト ウィキペディアから

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小指 敦子(こざす あつこ、本名:安津子、女性、1933年 - 1993年11月6日)は、日本のファッションジャーナリスト編集者。『セゾン・ド・ノンノ』『マリ・クレール・ジャポン』などで執筆。雑誌取材で何度もパリ・コレクションを取材し、ジャンニ・ヴェルサーチとも親しい間柄だった[1]。夫は、NKK(現JFEエンジニアリング)特別主席の小指軍夫(こざす いさお)。

経歴

埼玉県さいたま市(旧浦和市)出身。桑沢デザイン研究所卒業。『二人自身』(光文社)編集部に勤務。

夫の留学に伴い渡米。ファッション専門学校FIT(Fashion Institute of Technology)の聴講生となり、アパレル経営術を学ぶ。

帰国後、旭化成に勤務。川久保玲と知り合う。

1971年、伊勢丹研究所でファッションの企画などに携わる。

1979年、フリーのファッション・ジャーナリストとして独立。パリ・コレクションを中心にヨーロッパ・ファッションを日本に紹介した。1980年代前半は厚生労働省の『労働時報』に海外の服飾業界事情を連載、同じく1980年代後半より、朝日新聞社主催のトークイベント「パリ・プレタポルテ・コレクション」にゲスト解説者として登壇。また雑誌『マリクレール』の編集に関わる[注釈 1]

1992年、唯一の単行本『テーブルトーク テーブルセッティングから始まるヨーロッパの生活様式』(中央公論社)を出版。

1993年11月6日、心筋梗塞のため自宅で死去。享年60。

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コム・デ・ギャルソンとの関わり

1960年代後半、旭化成勤務時代に川久保玲と知り合い、川久保にフリーのスタイリストになるよう勧め、コム・デ・ギャルソンの設立に影響を与えた[3]。1981年にコム・デ・ギャルソンがパリ・コレクションに進出する際、どの顧客に招待状を送るべきかの助言を与えている[3]筑摩書房から1986年に出版されたコム・デ・ギャルソン写真集『COMME des GARCONS』[注釈 2]の編集を担当。コム・デ・ギャルソンのPR誌『Six』[注釈 3]については全8号(1988年から1991年まで)編集を担当する。

著作

  • 『テーブルトーク テーブルセッティングから始まるヨーロッパの生活様式』小指敦子(編)、中央公論社〈暮しの設計;別冊22〉、1992-10-30[6]
  • 「SOENレポート 男は黙って女にまかせろ」『装苑』第25巻第12号、文化出版局、1970年12月、129133頁。
  • 『労働時報』連載、厚生労働省広報室 (編)、第一法規
    • 「寂聴塾」、第34巻第7号(通巻395)、1981年7月、11頁。
    • 海外OL事情「ニューヨークのOLたち」、第36巻第1号(通巻413)、1983年1月、3839頁。
      • 「(続)ニューヨークのOLたち」、第36巻第2号(通巻414)、1983年2月、5455頁。
      • 「(3)ミラノのOLたち」、第36巻第3号(通巻415)、1983年3月、5455頁。
      • 「(4)パリのOLたち(その1) 」、第36巻第4号(通巻416)、1983年4月、5455頁。
      • 「パリのOLたち(その2)」、第36巻第5号(通巻417)、1983年5月、5455頁。
      • 「(6)ロンドンのOLたち」、第36巻第6号(通巻418)、1983年6月、5455頁。
    • SAVVYな女性「(1)クロエのマダム・アギオン」、第36巻第7号(通巻419)、1983年7月、5657頁。
      • 「(2)プレス担当のアンナ・ゼニア」、第36巻第8号(通巻420)、1983年8月、6263頁。
      • 「(3) アメリカ・C・ディオールの社長」、第36巻第9号(通巻421)、1983年9月、54-55頁。
    • 「ジェントル・ウーマン」 、第38巻第6号(通巻442)、1985年6月、3頁。
  • 篠山紀信 ; 小指敦子「日本人の仕事場 〔川久保玲〕」『小説新潮』第43巻第8号(通巻542)、新潮社、1989年7月、3頁、390頁。

脚注

参考文献

関連文献

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