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小早川能久
日本の江戸時代前期の武将・兵法家。筑後久留米城主小早川(毛利)秀包三男。讃岐高松藩附家老(1代のみで無嗣断絶)を勤める ウィキペディアから
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小早川 能久(こばやかわ よしひさ)は、江戸時代前期の武士。小早川秀包の三男。通称は大学、式部。小早川式部の名で兵法家としても名を残す。
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生涯
小早川秀包の三男として生まれる。毛利秀就に仕えたが、故あって牢人となる。江戸滞在中に水戸藩主・徳川頼房に召し出され、松平頼重の附家老となった。
また、能久は兵法家でもあり、小幡景憲に甲州流軍学を学んで『翁物語』(成立は1652年以前)を著した。能久の流れは、筑前福岡藩に伝わった。
寛文6年(1666年)4月17日に死去[1]。子の喜太郎が早世したため嗣子がなく、能久の死により小早川家は断絶した[1]。
系譜
- 父:小早川秀包(1567-1601)
- 母:桂姫(1570-1648) - 大友義鎮(大友宗麟)の娘。
- 正室:不詳
- 長男:小早川喜太郎(?-?) - 早世。母は不詳。
- 長女:女子(?-?) - 高松藩士・戸祭主水室。母は不詳。
脚注
参考文献
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