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小林宗作

日本の教員 ウィキペディアから

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小林 宗作(こばやし そうさく、1893年6月15日[1] - 1963年2月8日)は、日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。

概要 こばやし そうさく 小林 宗作, 生誕 ...

群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身[1]東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒[1]。本名は、金子 宗作(旧姓:小林)[1]

来歴

1893年、群馬県岩島村の農家の三男(末子)として誕生[1]。長姉の養子となり、金子姓となるが、基本的に小林宗作の名を用いた[1]

1899年、吾妻郡三島小学校入学。1907年、三島小学校高等科卒業後、代用教員を務める[1]1911年、音楽教師を志して上京し[1]、東京都新宿牛込小学校に勤務する[1]1916年、東京音楽学校乙種師範科(高等小学校卒業者対象の1年制課程)入学[1]1917年、東京音楽学校を卒業[1]、同大学選科に進学する[1]。この頃、公立小学校や成蹊小学校に勤務しており、学業と仕事の両立が難しかったからか、選科に5年間在籍した後に中退している[1]。次兄も群馬師範学校を卒業し、群馬や東京の小学校教員・校長を歴任するなど宗作と同じ道を歩んだ[1]。しかし、教育観の相違からか、二人は頻繁な交流にもかかわらず、しばしば対立することがあったという。

1923年スイスフランスドイツイタリアイギリスに留学。ダルクローズ音楽学院ではリトミックエミール・ジャック=ダルクローズに学ぶ。帰国後、石井漠舞踊研究所・東洋英和女学院国立音楽学校などで教鞭をとる。また、小原国芳とともに成城幼稚園設立に参画する[1]1930年、再び渡欧し、パリミラノベルリンに留学する。大正自由教育運動の中で、就学前・初等教育の段階にある子供たちに、より自由で芸術的な音楽教育を志向し、幼児教育・音楽リズムと造形リズムの関係・音楽と体操の結合について研究し、その成果を日本の教育界に紹介した。

1937年、成城幼稚園を退職し[1]手塚岸衛が創立した自由ヶ丘小学校を石井漠の勧めで引き取り、トモエ学園に改める[1]。なお、宗作は長男の名前にも、学校と同じ「巴」を付けている。1945年、空襲で学園を焼失する。燃えている学園を見ながら長男の巴に「今度はどんな学校を作ろうか」とつぶやいたという。1948年、さくら幼稚園を設立し、初代園長に就任する。1949年、国立中学校・国立音楽高校のリトミック指導者に就き、翌年には国立音楽大学講師に就く[1]

1963年、死去。

教え子に、井上園子黒柳徹子山内泰二池内淳子津島恵子美輪明宏らがいる[1][2]

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演じた人物

出典

参考文献

関連項目

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