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小沢欽一
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小沢 欽一(おざわ きんいち、1947年12月20日 - )は、日本の元陸上競技選手、指導者。神奈川県真鶴町生まれ。日本体育大学卒業。
経歴
高校卒業後は2年間東急に在籍し、5000mは14分18秒2まで記録を伸ばした。
大学時代
1968年、高校の先輩に憧れ日本体育大学に入学。1年時の第45回箱根駅伝では1区を走り区間7位だったが、日本体育大学は初優勝を果たした[1][2]。2年時の第46回箱根駅伝では4区を区間2位で走り、首位をキープ[3]。日体大は連覇を果たした[4][5]。
3年時の第47回箱根駅伝では、往路で日体大は4位と振るわず首位の日本大学とは7分55秒の大差をつけられる。6区の今野秀悦が区間賞で5分58秒差まで詰めると、7区を走った小沢は小雪の降る中ハイペースで押し切り、区間新記録を樹立[6][7]。この区間でトップとの差を1分54秒まで縮めた。その後日体大は3位に後退したが、10区の岩渕仁が2つ順位を上げ、逆転で3連覇を飾った[8]。3週間後の第2回全日本大学駅伝では最長区間の4区で区間賞を獲得し、連覇に貢献した。
4年時の第48回箱根駅伝では大会前に怪我に苦しめられていたが、ライバルの順大・宮下敏夫に勝利し、2区で区間新記録を樹立[9][10]。トップで襷を繋いだ。その後、一時は大東文化大学に並ばれたものの首位は譲らず、総合4連覇を達成した[11]。第3回全日本大学駅伝では昨年に続いて4区を走り、宮下に敗れて区間2位だったがチームは3連覇を成し遂げた。
大学卒業後
教師志望だったが自分の力を試すため神戸製鋼に入社し、競技を続けた。1974年に行われたアジア競技大会の5000mに出場し、銅メダルを獲得した。また、1975年の第24回別府大分毎日マラソンでは初マラソン日本最高記録となる2時間13分10秒4で優勝を果たしている[12]。1977年に現役を引退し、川崎製鉄千葉(現:JFE千葉)、ダイワハウス、鈴木自動車で女子長距離選手の指導にあたった。
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戦績・記録
大学駅伝戦績
関連項目
- 岩渕仁 - 同学年
参考文献
脚注
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