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小谷勝重

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小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年明治23年)12月24日 - 1963年昭和38年)10月27日)は、日本の法律家最高裁判所裁判官弁護士

略歴

1890年(明治23年)12月24日、京都府に生まれる。子供の頃は「とても7歳までもつまい」と医者に言われたほど体が弱く、弱い者びいきとして弁護士を志す[1]1914年大正3年)、法政大学専門部法律科を卒業する。弁護士試験に合格後、大阪で開業する。

1929年(昭和4年)、大阪弁護士会副会長に、1946年(昭和21年)、大阪弁護士会会長に就任する。1941年(昭和16年)『日本取引所法制史論』で法政大学より法学博士を授与される[1]

裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)、最高裁判所裁判官に任命される。1948年(昭和23年)、法政大学監事に就任する。1949年(昭和24年)7月に最高裁判所誤判事件を起こし、1950年(昭和25年)6月に1万円の過料処分となる。

1949年1月23日の最高裁判所裁判官国民審査(初めて実施された最高裁裁判官国民審査)において、罷免を可とする票1,378,268票、罷免を可とする率4.56%で信任。1960年11月20日の最高裁判所裁判官国民審査において、罷免を可とする票3,237,455票、罷免を可とする率9.09%で信任。一人で2度国民審査を受けた最高裁判事は1960年の国民審査における小谷を含む5名が初の事例である。

1960年(昭和35年)12月23日に定年退官[2]

1963年(昭和38年)10月27日に食道がんを手術した後で栄養障害を起こし、東京都市ヶ谷の国立第一病院で72歳で死去した[2]

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主な裁判

警察予備隊違憲訴訟(1952年(昭和27年))[3]チャタレー事件(1957年(昭和32年))[4]砂川事件(1959年(昭和34年))[5]苫米地事件(1960年(昭和35年))[6]など。

著書

  • 『日本取引所法制史論』(法経出版社、1953)

家族

子に物理学者大阪大学名誉教授小谷恒之がいる。

脚注

参考書籍

外部リンク

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