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山下秀之助
日本の医師・歌人 ウィキペディアから
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山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 - 1974年4月4日)は、日本の医師・歌人。短歌雑誌『創作』の若山牧水、『潮音』の太田水穂に師事し、吉植庄亮主宰の『橄欖』を経て、1946年『原始林』(第2次)を札幌市で創刊。北海道の歌壇の基礎を築いた一人と評価され[1]、戦前・戦後の北海道文壇・歌壇の指導的な存在であった[2]。
人物・来歴
要約
視点
鹿児島、東京帝大、北海道
1897年(明治30年)11月29日、鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる[4][5]。鹿児島第一中学校、第七高等学校造士館を経て[4]、1922年(大正11年)東京帝国大学医学部を卒業[5]。同年5月、北海道帝国大学医学部助手として北海道に移る[2]。北大医学部講師、小樽病院[注 1]を経て、移住四年後の1926年(大正15年)から国鉄傘下の札幌鉄道病院(現在のJR札幌病院)に勤務[2]。1929年(昭和4年)、北大医学部より医学博士号を取得[9]。札幌鉄道病院に長く勤め、1945年(昭和20年)には院長となった[2][10]。
歌人として
鹿児島在住の15歳のころ、1913年(大正2年)から作歌を始め、第2期『創作』に投稿して短歌を同じく鹿児島出身の先輩・若山牧水に学ぶ[2]。1915年(大正4年)に『創作』が『潮音』に移行すると太田水穂に師事、その歌風を「愛欲派」と評されたという[2]。
1924年(大正13年)4月、26歳のとき、札幌の短歌雑誌『言霊』と小樽の『新樹』を糾合して『原始林』(第1次)を札幌で創刊[11]。小田観螢、
第二次世界大戦が敗戦に終わると1946年(昭和21年)、札幌で再び短歌雑誌『原始林』を創刊して主宰[2]、この第2次『原始林』は田辺杜詩花や中山周三をはじめ多くの人と時機を得て山下没後も長く続くことになる[注 5]。翌1947年(昭和22年)には戦前の『冬日』に続く第二歌集『雪雲』を、1952年(昭和27年)に第三歌集『底流』を刊行。1954年(昭和29年)に北海道歌人会の設立に参加し、「北海道新聞歌壇」の選者を担当した[2]。1952年(昭和27年)、歌人として第4回北海道文化賞(芸術)を受賞[22]、1957年(昭和32年)には還暦を祝して円山公園内に歌碑が建立された[3]。
東京移住後
医師としては札幌鉄道病院長を長年勤め、1958年(昭和33年)に定年退職[注 6]。同年、東京に転住し[24]、日通病院[注 7]や松風荘病院などに勤務[2]。東京に居を移したのちも歌人として日本短歌雑誌連盟の幹事長、現代歌人協会の理事を務め[4]、また1968年・1969年(昭和43年・44年)には歌会始の選者も務めた[32]。肝臓がんにより1974年(昭和49年)4月4日、76歳で死去[2]。
没後、山下の妻および歌誌『原始林』(第2次)を創刊時から支えた弟子の中山周三[33]ら同誌の会員有志によって全歌集の刊行期成会が結成され、『山下秀之助全歌集』(全1巻)を逝去の翌年に刊行した[34]。同書の上梓には山下が若いころから敬愛した歌人・土岐善麿の助言を受けたという[34]。
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作品
- 遠くより別れのしるしきみがするその手は暗に白かりしかも
- この街のめぐりをよろふ山山の雪身にしみて大路をゆけり
- よく晴れて眼路ひろびろし牧場の地(つち)をゆすぶり来るトラクター
以上3首、第一歌集『冬日』(1931年)より『新札幌市史』第4巻が載せる山下の作[35]。
- 鳥が音はこもごもにして草ふかき丘に垂りくる白き曇りは
- バラックに瓦礫に映ゆるくれなゐを声のみて見む瞬きのひま
- 夕灼くる西空とほく円錐の富士黒ずむをわが独り見む
- すでに夢失へる者ひとり来て黒き家鴨を池にいたぶる
- 年たけて命けふまで永らへしおのが身愛すゆゆしく病めど
以上、中山周三が『山下秀之助全歌集』の「あとがき」中で挙げている山下の歌11首から[36]。
著作リスト
著書
編著書
脚注
参考文献
外部リンク
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