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山内甚五左衛門

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山内 甚五左衛門(やまうち じんござえもん、寛政元年(1789年) - 万延元年7月15日1860年8月31日))は、江戸時代代官

名は董正(ただまさ)。字は治卿。鴻谷と号した。当初の通称は総左衛門。天保14年(1843年勘定奉行の属吏として下野国真岡東郷役場に赴任させられた。郡の農民は耕作を怠り、極めて貧困であった。山内はその気風を奮い起こし、その治績は大きく上がったので、江戸幕府はその功を賞して真岡代官とした。部下である二宮尊徳らとともに農事の改良をはかり、開墾、植林、水利、交通などに従事し、貯蔵米の義倉を建て、棉花を栽培し、紡績を奨励するなどの功績をあげ、安政5年(1858年)駿府に転任し、万延元年(1860年)死去した。真岡の領民は山内の遺徳を慕って山内明徳碑をたてた。

大正13年(1924年)、その功績をもって正五位を贈られた[1]

脚注

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