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山崎楽堂

日本の建築家 (1885-1944) ウィキペディアから

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山崎 楽堂(やまざき がくどう、1885年明治18年)1月19日 - 1944年昭和19年)10月29日)は日本の建築家能楽研究者、能楽評論家。法政大学教授。本名は静太郎(せいたろう)[1]。息子は、能楽評論家で前横浜能楽堂館長の山崎有一郎

略歴・人物

1885年(明治18年)1月19日、和歌山県に生まれる。山崎家は旧紀州藩士の家で、父・九一郎は大蔵流の名家松井氏に狂言を学び、楽堂も幼時から能・狂言に親しんだ[1][2]。1909年(明治42年)に東京帝国大学建築学科を卒業。同期に後藤慶二長谷部鋭吉などがいる[1]千葉高等園芸学校講師、法政大学教授などを務め、梅若能舞台、細川家能舞台、染井能楽堂、久良岐能舞台の設計に携わる[1]

また、喜多流をたしなみ、川崎九淵について葛野流大鼓を学び、研究家としては囃子に精通し、地拍子の理論を確立、の胴に造詣が深かった[3]。評論家として時事新報朝日新聞、ほか諸雑誌に能評・時評を執筆、池内信嘉坂元雪鳥と並び称された[4]

高浜虚子門下、「ホトトギス同人」の俳人でもあった[1]

1944年(昭和19年)10月29日に死去、享年60[1]

その他

法政大学の校章は、山崎が教授時代に考案したもので、長い伝統と永遠の真理をイメージして「大学」の二文字を亀の子型に図案化したものである。

また、法政騒動のときに、喜多文子五段(当時)の紹介で頭山満に会い、騒動の仲裁を依頼している(仲裁そのものは実現しなかったようである)。

著書

要約
視点

『宝生流謡本解説備考』(宝生重英 等閲、鈴木暢幸 註、山崎楽堂 拍子担当)わんや謡曲書肆、1917年 - 1918年。

論文、雑誌

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脚注

参考文献

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