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後藤慶二

建築家 ウィキペディアから

後藤慶二
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後藤 慶二(ごとう けいじ、1883年10月29日 - 1919年2月3日)は日本の建築家。司法技師として監獄等の建設に従事、豊多摩監獄[1](後の中野刑務所)が代表作。

概要 後藤慶二, 生誕 ...

経歴

東京市小石川生まれ。父・後藤牧太は物理学者で東京高等師範学校教授。東京高等師範学校附属小学校・同中学校を経て、旧制第四高等学校(金沢)第二部甲組を卒業。白馬会菊坂研究所に通い洋画を学ぶ。1906年に東京帝国大学工科大学建築学科に入学し、1909年卒業。同期に山崎静太郎長谷部鋭吉らがいる。

卒業後は司法省に入り営繕技師になる[2]山下啓次郎横浜勉とともに豊多摩監獄の建設に従事。また中央工学校(夜学)の建築科教務主理を務める。1914年頃、佐野利器内田祥三内藤多仲らと白光会を組織。同期の山崎静太郎中村達太郎の「虚偽建築論争」(1915-16年)に際して「形而下の構造に対する形而上の批判」を寄せ、構造と意匠に関する建築論を展開した[3]

1915年3月、豊多摩監獄が竣工。建設に功績のあった後藤に300円、横浜勉に250円、山下啓次郎に100円の賞与が贈られた。同月、司法技師を依願免官。6月から8月にかけて、関野貞らとともに朝鮮総督府嘱託として朝鮮古墳調査に参加した。朝鮮から帰国後、明治神宮宝物殿建築設計競技に応募し、3等1席に入選する。現在の宝物殿(大江新太郎実施設計、重要文化財)は後藤案のデザイン(校倉風)をふまえていると言われる。

1916年、司法省に復職し、東京区裁判所を手がける。同年早稲田大学講師として内藤多仲(留学中)の構造の講義を引き受けて、1年間代講する。

建築学会では常議員及び建築雑誌編集委員(1915年、1916年)等を務めた。国民美術協会展覧会の第2回(1914年)から第6回(1918年)まで作品を出展し、第6回に雨潤会奨励賞金を受ける。1917年には国民美術協会理事に選出された。

建築構造でも研究を進め、佐野利器内田祥三内藤多仲らと「鉄筋コンクリートに関する訳語並びに記号私案」[4]を作成。コンクリート構造に関する論文を多く発表した。日本で建築構造における図式解法の最初の紹介者とも称される。

1919年、スペイン風邪腸チフスを併発し、36歳の若さで死去。墓所は東京・赤坂の澄泉寺にある。[要出典]後藤家の墓所が多磨霊園にある。

1925年、妻の芳香が作品図案を多く含む「後藤慶二氏遺稿」(私家版)を刊行。建築家岡田信一郎が序文を寄稿している。

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作品

その他

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旧豊多摩監獄表門
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「辰野金吾博士 作品集成絵図」1916年
  • 短命のため作品は少ない。代表作の豊多摩監獄は中野刑務所となり、1983年に閉庁。跡地は防災公園(区立平和の森公園)、下水道施設、法務省矯正研修所となり、矯正研修所構内に旧豊多摩監獄の正門部分のみが保存された。2017年に矯正研修所が昭島市に移転したため、旧正門の保存運動が行われた。中野区は研修所跡地を小学校用地として購入し、旧正門は保存する方針で[7]、区文化財に指定[8]。曳家により移築される予定である(2024年3月現在)。
  • 辰野金吾の還暦祝いに「作品集成絵図」を贈った。日本銀行、東京帝国大学工科大学、東京駅など辰野作品が並ぶ架空の街並みを描いたものである。
  • 子息一雄は後に東京工業大学建築学科教授。

著書

  • 後藤慶二氏遺稿』私家版、後藤芳香、1925年https://dl.ndl.go.jp/pid/1900949
    • 森仁史 監修『後藤慶二氏遺稿』ゆまに書房〈叢書・近代日本のデザイン. 23〉、2009年。ISBN 9784843330555に復刻
  • 日本劇場史・附西洋劇場の話』岩波書店、1925年https://dl.ndl.go.jp/pid/1017991/1/3卒業論文をもとにしたもので、日本の劇場建築史に関する研究の嚆矢。
  • 鉄筋混凝土構造』白水社、1926年https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1020901/1/3
  • 後藤慶二『日本劇場史 簡易なる日本国劇史 (近世文芸研究叢書 第2期芸能篇 5(歌舞伎5))クレス出版、1996年https://dl.ndl.go.jp/pid/14028538

論文、雑誌

  • 後藤慶二「能舞台建築の進化」『建築雑誌』、日本建築学会、1911年。
  • 後藤慶二「劇場の話」『建築工芸誌』、建築工芸社、1913年。
  • 後藤慶二「横断劇場舞台建築史」『中央建築』、中央建築社、1923年。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(1)」『能楽』第8巻第1号、『能楽』発行所、1910年1月、71-77頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(2)」『能楽』第8巻第2号、『能楽』発行所、1910年2月、40-45頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(3)」『能楽』第8巻第3号、『能楽』発行所、1910年3月、48-53頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(4)」『能楽』第8巻第4号、『能楽』発行所、1910年4月、51-56頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(5)」『能楽』第8巻第5号、『能楽』発行所、1910年5月、46-49頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(6)」『能楽』第8巻第6号、『能楽』発行所、1910年6月、32-38頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(7)」『能楽』第8巻第8号、『能楽』発行所、1910年8月、23-27頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(8)」『能楽』第8巻第9号、『能楽』発行所、1910年9月、22-26頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(9)」『能楽』第8巻第10号、『能楽』発行所、1910年10月、54-57頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(10)」『能楽』第8巻第11号、『能楽』発行所、1910年11月、48-54頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野「能舞台研究会(11)」『能楽』第8巻第12号、『能楽』発行所、1910年12月、56-62頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野、藤田「能楽堂改良会(1)」『能楽』第9巻第1号、『能楽』発行所、1911年1月、79-84頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野、藤田「能楽堂改良会(2)」『能楽』第9巻第2号、『能楽』発行所、1911年2月、68-71頁。
  • 後藤、山崎静太郎、上野、咲壽「能楽堂改良会(3)」『能楽』第9巻第4号、『能楽』発行所、1911年4月、60-64頁。
  • 後藤、山崎静太郎「能楽堂改良会(4)」『能楽』第9巻第5号、『能楽』発行所、1911年5月、52-55頁。
  • 後藤、山崎静太郎、咲前、上野「能楽堂改良会(5)」『能楽』第9巻第7号、『能楽』発行所、1911年7月、59-61頁。
  • 後藤慶二「慶長12年の勧進能舞台」『能楽』第8巻第10号、『能楽』発行所、1910年10月、33-37頁。
  • 後藤慶二「能舞台を作り物として見よ」『能楽』第9巻第1号、『能楽』発行所、1911年1月、67-69頁。
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関係資料

注釈

参考文献

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