トップQs
タイムライン
チャット
視点

山本早苗

アニメーション作家 ウィキペディアから

Remove ads

山本 早苗(やまもと さなえ、1898年2月6日 - 1981年2月8日)は、日本の映画監督映画プロデューサー作画監督撮影監督アニメーション作家英語版であり、実業家である[1][2][3]戸田 早苗(とだ さなえ)[1][2][3]山本 善次郎(やまもと ぜんじろう)とも称する[4]

概要 やまもと さなえ 山本 早苗, 別名義 ...
Remove ads

人物・来歴

要約
視点

1898年(明治31年)2月6日千葉県農家に生まれる[3]東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)の呉服屋に丁稚奉公に出されるも、画業への希望を捨てられず新聞配達をしながら川端画学校に学ぶ[3]

1917年(大正6年)に日活向島撮影所で日本初のアニメーション製作を始めた北山清太郎に師事する[3][5]。1921年(大正10年)に北山清太郎が設立した北山映画製作所に参加、1924年(大正13年)には同社製作の『教育お伽漫画 兎と亀』を作画・演出する[1]。1925年(大正14年)には、独立して「山本漫画映画製作所」(東京漫画倶楽部)を設立、第1作『教育線画 姨捨山』を製作する[1][3]

1945年(昭和20年)9月10日、山本は連合国軍最高司令官総司令部に赴き、ロバート・キング・ホール・ジュニアに会い、アニメーションのサンプルを見せて製作への援助を申し出た。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)に設置された仮スタジオに案内し、承諾を得、同年10月、株式会社新日本動画社を設立、山本は社長に就任する[3]古沢日出夫政岡憲三村田安司らがこれに参加する[3][6]。翌11月には村田が主導して経理畑の人間がトップに就任、日本漫画映画と社名を変更、山本は企画部長となる[3]。同社は、政岡監督、山本製作による『』を完成するが公開は果たせず、1947年(昭和22年)8月、政岡とともに同社を退社する[3]

退社とともに、政岡憲三らと日本動画株式会社を設立、新宿区原町成城中学校・高等学校の空き校舎をスタジオとし、山本は社長に就任する[7]。撮影技師にのちに監督になる藪下泰司、倒産した日本漫画映画から合流した大工原章、古沢日出夫、福井英一、そして木村角山京都映画社から熊川正雄が参加した[7]。第1作は『すて猫トラちゃん』、東宝教育映画部が配給し、同年9月に公開される[7]。同社の正式な設立は1948年(昭和23年)1月23日である。

アニメーション業界環境は厳しく、1950年(昭和25年)に同社は全スタッフの一時解雇を余儀なくされ、山本はこれを決意、政岡はこれをもって引退した[7]。1952年(昭和27年)8月、同社は、東宝図解映画(前身はゼーオー・スタヂオ漫画部およびピー・シー・エル映画製作所漫画部)を吸収合併し「日動映画株式会社」と商号を変更する[8]。その後、東映が同社を買収、1956年(昭和31年)7月に日動映画株式会社から東映動画株式会社(現在の東映アニメーション)へ商号変更、山本は東映動画の取締役になった[8]

1964年(昭和39年)、東映動画を退社、山本アニメーション研究所、のちのチルドレンズ・コーナーを設立、東映動画の下請け製作を行った[9]。1966年(昭和41年)には、スタジオ・ゼロと共同で毎日放送から、テレビアニメおそ松くん』を受注製作する[9][10]。1967年(昭和42年)3月19日、同作の放映が終了、同月19日には『たぬきさん大当り』が公開されたのを最後に、チルドレンズ・コーナーを引退する[9]

1981年(昭和56年)2月8日、死去した。満83歳没。

Remove ads

フィルモグラフィ

1920年代
  • 教育お伽漫画 兎と亀 : 製作北山映画製作所、配給ナカジマ活動写真部、1924年公開 - 演出・作画(「戸田早苗」名義)[2]
  • 教育線画 姨捨山 : 製作東京漫画倶楽部、1925年公開 - 演出・作画(「戸田早苗」名義)[2]
  • 線畫 つぼ : 製作山本漫画製作所、1925年公開 - 作画(「山本早苗」名義)[2]
  • 病毒の伝播 : 製作山本漫画製作所、1926年公開 - 作画(「山本早苗」名義)[2]
  • 福の神と貧乏神 : 1927年公開
  • 七つの夢 : 1927年公開
  • 大和魂 : 製作極東映画、1927年8月10日公開 - 監督(「山本早苗」名義)
  • 働き者 : 製作極東映画、1928年公開 - 監督(「山本早苗」名義)
  • お伽噺 日本一 桃太郎 : 撮影相原隆昌、製作タカマサ映画社、1928年公開 - 作画(「山本早苗」名義)[2]
  • 一寸法師 : 1928年公開
  • 土瓶のゆくへ : 1929年公開
  • 衛生いろはかるた : 1929年公開
  • 日本マンガ 太郎さんの冒険撮影 : 撮影相原隆昌、製作タカマサ映画社、1929年公開 - 作画(「山本早苗」名義)[2]
  • アルキメデスと黄金の王冠 : 演出・作画金井木一路、製作東京線画フィルム、1929年2月18日公開 - 作画(「山本早苗」名義)
1930年代
  • 『馬の寄生虫』 - 製作
  • 『暁の空』
  • 『朗らかな朝』
  • 家畜は農家の宝 : 配給フヂワラフィルムラボラトリー - 製作
  • 牛の仇討 : 配給フヂワラフィルムラボラトリー、1930年公開 - 製作
  • 愛馬の誉 : 配給フヂワラフィルムラボラトリー、1930年公開 - 製作
  • 五一ぢいさん : 製作文部省、1930年公開 - 作画(「山本早苗」名義)[2]
  • 兄弟こぐま : 製作文部省、1932年公開 - 作画(「山本早苗」名義)[2]
  • とのちゃんのいたずら : 製作日本電報通信社、1934年公開 - 作画
  • 無敵正義軍 : 1936年公開
  • おいらの非常時 : 製作日本電報通信社活動写真部、1936年2月20日公開 - 演出・作画(「山本早苗」名義)[2]
  • 漫画のマン吉 (亀さんの報恩) : 製作日本電報通信社映画部、1937年公開 - 作画・演出
  • 源九郎義経 : 製作奥商会、1938年公開
1940年代
  • 狐の小父さん : 1940年公開 - 作画・演出
  • なまけぎつね : 製作文部省、1941年 - 作画(「山本早苗」名義)[2]
  • 敵機来らば : 製作三幸商会、1942年6月11日公開 - 演出・作画・撮影(「山本早苗」名義)[2]
  • スパイ撃滅 : 製作三幸商会、1942年7月16日公開 - 演出・作画・撮影(「山本早苗」名義)
  • お山の総動員 : 製作加治商会、1942年9月3日公開 - 監督・撮影(「山本早苗」名義)[2]
  • 子宝行進曲 : 製作加治商会、1942年9月10日公開 - 演出・作画・撮影(「山本早苗」名義)[2]
  •  : 監督政岡憲三、製作日本漫画映画、1946年完成 - 製作(「山本早苗」名義)
  • すて猫トラちゃん : 監督政岡憲三、製作日本動画、配給東宝教育映画部、1947年9月公開 - 製作(「山本早苗」名義)
  • トラちゃんと花嫁 : 監督政岡憲三、製作日本動画、1948年2月公開 - 製作(「山本早苗」名義)
  • 動物大野球戦 : 監督藪下泰次熊川正雄、製作日本動画、配給東宝教育映画部、1949年12月完成 - 「山本善次郎」名義
  • ポッポやさんののんき駅長 : 監督熊川正雄、製作日本動画映画、配給東宝教育映画部、1948年10月公開 - 製作(「山本早苗」名義)
1950年代
  • 小人と青虫 : 監督古沢秀雄、製作日本動画、配給東宝教育映画部、1950年12月公開 - 製作(「山本早苗」名義)
  • お天気学校 : 監督古沢日出夫、製作東宝教育映画部/日本動画社、1952年公開 - 製作(「山本早苗」名義)
  • ありとはと : 監督湯原甫、製作日動映画、配給教育映画配給社、1953年8月公開 - 製作(「山本早苗」名義)
  • 子うさぎものがたり : 監督森康二、製作日動映画、1954年3月公開 - 製作(「山本早苗」名義)
  • うかれバイオリン : 監督藪下泰司、製作日動映画、1955年10月公開 - 企画(「山本早苗」名義)
  • 一寸法師 : 監督藪下泰司、製作日動映画、1956年5月公開 - 製作(「山本早苗」名義)
  • こねこのらくがき : 監督藪下泰次、製作東映教育映画部、1957年5月13日公開 - 企画(「山本早苗」名義)
  • 夢見童子 : 監督蕗谷虹児、製作東映教育映画部、1958年4月5日公開 - 企画(「山本早苗」名義)
  • 白蛇伝 : 監督藪下泰司、製作東映動画、配給東映、1958年10月22日公開 - 企画(「山本早苗」名義)
  • 少年猿飛佐助 : 監督藪下泰司・大工原章、製作東映動画、配給東映、1959年12月25日公開 - 企画(「山本早苗」名義)
1960年代
Remove ads

ビブリオグラフィ

  • 『うかればいおりん』、幼児教育紙芝居研究会東京画劇社、1952年8月 - 画
  • 『漫画映画と共に 故山本早苗氏自筆自伝より』、宮本一子、1982年3月 - 自伝

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads