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山田年忠

1868-1934, 明治、大正時代の日本画家、浮世絵師 ウィキペディアから

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山田 年忠(やまだ としただ、慶応4年4月2日1868年4月24日) - 昭和9年(1934年1月21日)は、明治大正時代の日本画家浮世絵師。日本画家としての名前山田敬中がよく知られている。

来歴

要約
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月岡芳年及び川端玉章の門人。本名は島根忠蔵。後に山田氏を継いだ。南窓、南斎、南志、可得、敬中と号す。

江戸浅草聖天町(吉野町)に生まれる。明治14年(1881年)4月寺部小学校卒業後、明治17年(1884年)1月より元水戸藩林誠翁俳諧漢学を学ぶ。明治19年(1886年)6月浮世絵師の月岡芳年に師事し、浮世絵の人物画を学んだ。年忠はこの時の号で、別に南窓、南斎とも号した。明治20年(1887年)から浮世絵を描き始めており、同年の大判3枚続「東京名所吾妻橋鉄橋之全図」や、明治27年(1894年)の同3枚続「青山観兵式之図」などが知られているが、作品は多くはない。明治22年(1889年)6月青年絵画共進会に「年の市図」を出品し四等賞を受賞。新進の青年画家として認められ始め、『絵画叢誌』などに作品が掲載される。翌明治23年(1890年)2月から江戸新聞社に一時入社、新聞雑誌単行本挿絵なども描いている。月岡芳年は弟子に浮世絵の修行だけでなく、他派を学ぶことも奨励したため、年忠も明治24年(1891年)から川端玉章に師事し、敬中、可得と号して作品を発表、次第に円山派写実主義へ転向していく。

同年9月岡倉覚三(天心)の日本青年絵画協会に、川端塾から発起人の一人として参加、10月にその幹事となる。11月結成後初めての臨時研究会で審査書記を務め、「黄瀬川陣営義経謁頼朝」を出品、邨田丹陵寺崎広業と共に一等褒状を受ける。明治29年(1896年)日本絵画協会が発足するとその評議員兼幹事に指定される。同年10月の第1回日本絵画協会共進会に、狩野芳崖の「悲母観音」の影響を受けた「浄穢界」を出品し銅牌を受賞した。同年、東京美術学校の嘱託教員となるが、明治31年(1898年)にいわゆる東京美術学校騒動に巻き込まれる。師の川端玉章は留任したが、敬中は岡倉との情誼を重んじて辞職する。その後、岡倉が創立した日本美術院に参加、直に正員となっている。また、この頃、博文館において『文芸倶楽部』や『日用百科全書』の木版口絵を描いている。

翌明治31年(1898年)12月11日付で岡倉の推挙により、金沢工業学校(現石川県立工業高等学校)の教諭として同地に赴いた。これは岡倉と同校の創立者納富介次郎が親しかったことによる。敬中は明治33年(1900年)の日本美術院第四回共進会まで金沢から作品を送るものの、次第に中央画壇から離れていった。敬中は金沢で10年の歳月を過ごす。

明治40年(1907年)の第1回文展の開催と同時に東京へ戻り、「華の蜜」が入選。既に日本画壇革新のために共に戦った横山大観菱田春草らとは疎遠となっており、以降文展を作品発表の場とした。明治42年(1909年)の第3回文展にて「桃園三傑」が褒状を受けている。大正13年(1924年)には帝展委員となっている。一方、恩師の川端玉章が創立した川端画学校では、教授として後進の育成に尽力した。

子に日展の中堅作家として活躍した山田申吾、女婿に加藤栄三がいる。門人に吉田秋光田村彩天高橋敬美玉井敬泉らがいる。

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作品

浮世絵

  • 「東京名所上野公園地東照宮」 大判3枚続 明治22年(1889年)南斎年忠の落款
  • 「大日本帝国憲法発布式之図」 大判3枚続 明治22年(1889年)
  • 「大日本帝国銀婚御式」 大判3枚続 明治27年(1894年)南斎年忠の落款
  • 「向嶋 隅田堤観桜之図」 大判3枚続 南斎年忠の落款

口絵

  • 「二嬌読書」 『文芸倶楽部』第3巻12編 明治30年
  • 「農業大意」29 横井時敬作 『日用百科全書』 明治34年

日本画

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脚注

参考図書

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