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岡本則録

日本の数学者・教育者 ウィキペディアから

岡本則録
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岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847年12月7日弘化4年10月30日[4] - 1931年昭和6年)2月17日)は、日本数学教育者、和算家陸軍教授和算から西洋数学へ転向し、文科省に横書きの教科書を刊行するよう建議した[5]日本数学会の前身である東京数学会社の設立に携わった。

概要 人物情報, 別名 ...

海軍の中川勝行荒川重平の訳語統一を支援し[6]、「公理」「単位」「数学」などの語を発案した[7]

経歴

金融業を営む後藤誠作と後藤くにの間に長男として生まれ、最初は後藤を名乗った[8]。父誠作の没後に岡本備中守にあやかり姓を岡本とした。和算家としては長谷川弘に師事した[9]花柳流に通っていたため貧しくなり、弟子の松岡文太郎に助けられて生活していた。1873年から大阪師範学校、1877年から学習院、1883年から愛媛県師範学校で働いた[8]。1886年12月17日、奏任官四等で陸軍教授に就任[10]。1889年2月7日非職となったが[11]、1890年4月12日に復職し、砲工学校教官になった[12]。本官退任の依願後、成城学校の教頭・校長を務めた[13][14][15]。晩年は、和算書をまとめた『和算圖書目錄』の作成に勤しんだ[16]。1931年に没し新宿区来迎寺に葬られた。戒名真光院浄誉則錄居士[8]

栄典

著書

出典

参考文献

外部リンク

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