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岩佐純

日本の医師 ウィキペディアから

岩佐純
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岩佐 純(いわさ じゅん、天保6年5月1日[1]1835年5月27日〉 - 明治45年〈1912年1月6日[2])は、日本医師男爵宮中顧問官は仲成、通称は又玄、号は黙斎。

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岩佐純

経歴

越前国福井三上町に代々福井藩医を務める岩佐家に生まれる。父親は岩佐玄珪[3]1856年安政3年)より江戸で西洋医学を学び、さらに下総国に赴いて佐藤尚中の門に学んだ[4]1860年万延元年)、福井藩医・洋学所教授に任命され、さらに長崎に遊学してオランダ人ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトらに医学を学んだ[4]

1869年(明治2年)、徴士として明治政府に出仕し、学校権判事、大学少丞、大学権大丞、大学大丞、中教授を歴任し、大阪医学校開設など医学教育の充実にあたった[4]1872年(明治5年)に大侍医となり、四等侍医、三等侍医、二等侍医、一等侍医と昇進していった[4]。初めは昭憲皇后の診察にあたったが、後に明治天皇の診察にあたった[4]。また告成堂病院を開いて院長を務め、子息の岩佐新とともに診察にあたった[4]1884年(明治17年)に医学研究のため1年半欧州に滞在した[5]1888年(明治21年)の明治天皇第5皇女久宮静子内親王危篤の際には、御匙医の浅田宗伯と治療を巡って争いとなり、処置に困った香川敬三が天皇に伺いを立て、侍医の池田謙斎を呼び戻して岩佐と治療にあたることになったが、救うことはできなかった[5]

1898年(明治31年)より宮中顧問官を兼ね、1907年(明治40年)には男爵を授けられた[6]

1911年(明治44年)、病のため侍医を辞した[6]。翌年、病をおして宮中新年宴会に参内したが、豊明殿で昏倒して死去した[6]

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家族

弟に鉱山学者で東京大学教授の岩佐厳(1852 - 1899)がいる。妻は同藩士の松原次郞左衞門の娘[7]

栄典

位階
勲章

著作

  • ニーマイル『急性病類集』 巻之1、岩佐純編訳、告成堂、1873年。 NCID BA43856415全国書誌番号:40057244 NDLJP:834772
  • ニーマイル『急性病類集』 巻之2、岩佐純編訳、告成堂、1873年。 NCID BA43856415全国書誌番号:40057244 NDLJP:834773
  • ニーマイル『急性病類集』 巻之3、岩佐純編訳、告成堂、1873年。 NCID BA43856415全国書誌番号:40057244 NDLJP:834774
  • ニーマイル『急性病類集』 巻之4、岩佐純編訳、告成堂、1873年11月。 NCID BA43856415全国書誌番号:40057244 NDLJP:834775
  • ニーマイル『急性病類集』 巻之5、岩佐純編訳、告成堂、1876年6月。 NCID BA43856415全国書誌番号:40057244 NDLJP:834776
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脚注

参考文献

外部リンク

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