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岩元禄
建築家 ウィキペディアから
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岩元 禄(いわもと ろく 1893年5月23日- 1922年12月24日)は日本の大正期の建築家。歴史主義から離れ、斬新なデザインの作品を設計し、建築を創造として捉えた姿勢は同世代、次世代の建築家に影響を与えた。建築家、建築教育者として将来を嘱望されていたが、病気のため早世した。
西陣電話局を設計し、逓信省営繕の中核をなす設計者の一人であった。夭折のため作品数は少ない。
経歴
1893年(明治26年)、鹿児島県鹿児島市照国町生まれ[1]。幼少時に父が死去し、兄・岩元禎が一高教師となったのに伴い、上京。青山小学校、府立一中、一高を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学建築学科に入学。1918年に卒業し、逓信省に入った。1920年逓信技師就任、経理局営繕課に勤務。
絵画、彫刻、音楽と多趣味であり、建築の芸術性を追求した。1921年に竣工した京都中央電話局西陣分局は、裸婦像をモチーフにした独創的なデザインで、岩元の代表作である。
1921年1月、東京帝国大学助教授(建築意匠論)に就任し建築学第一講座を担当したが、同年秋に結核を発病。療養生活に入り、翌年死去。享年30。
作品

現況欄の○は現存、✕は現存せず
その他
参考文献
- 八木憲一「故正員岩元禄君の死を悼む」『建築雑誌』1923.5月号
- 神代雄一郎「創造を始めた岩元禄」『近代建築の黎明』美術出版社、1963
- 向井覚『建築家岩元禄』相模書房、1977
- 藤森照信「西陣の空高く美女と野獣が西陣電話局」『建築探偵雨天決行』朝日新聞杜刊、1989
註釈
外部リンク
関連項目
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