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岩切門二

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岩切 門二(いわきり もんじ、万延元年(1860年3月 - 明治29年(1896年11月24日)は、日本政治家ジャーナリスト[1]川越進らと宮崎県再置運動で活躍した[1]

概要 生年月日, 出生地 ...

概要

柏原村(現宮崎市大字柏原)出身[1]慶應義塾で法制を学ぶ[1]

1873年明治6年)1月に誕生した宮崎県は、1876年(明治9年)8月に鹿児島県に合併されてしまう。この鹿児島県から分離しようという分県運動に門二は参加し、1883年(明治16年)5月の宮崎県再置に貢献した。

運動中には弾劾演説で、鹿児島県令渡辺千秋を罵倒して検挙されたこともあるという。分県の議決をした同年2月の鹿児島県通常県会では、議長である川越進のもと書記長となった。

再置県後の門二の活動は、新聞の刊行と政党の結成へと向かう。1888年(明治21年)2月15日宮崎県初の新聞『宮崎新報』を発刊。門二はその主筆となった。一方、1889年(明治22年)3月の旧九州改進党の影響を受けた日州同志会の結成に参加。これが宮崎県の政党形成の大きなきっかけとなった。

1890年(明治23年)7月、日州大同倶楽部は解散し、倶楽部員は随意立憲自由党に加入することになり、門二もこれに参加している。1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙において宮崎1区から立候補し当選し、衆議院議員となったが、1896年(明治29年)に病没。享年37であった。

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脚注

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