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川上のぼる
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川上 のぼる(かわかみ のぼる 、本名:川上 登(読み同じ)[1][2]、1929年12月11日 - 2013年9月7日[1])は、日本の腹話術師、声帯模写師。
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略歴
要約
視点
京都市出身[1][2]。日本画家の川上拙以[1]の次男(兄は東映の美術監督やCFディレクターを務めた川上晃、弟は陶芸家の川上徹[4])。
芸事好きの父が2代目渋谷天外や2代目桂春團治らと親交があったため、幼少時から芝居小屋や寄席の楽屋に出入りする。少年時代からチャップリンやヒトラーのモノマネを得意とし、その芸の腕を買った2代目天外に「養子に欲しい」と言わしめたほどだったという[5]。
旧制中学5年の時、腹話術師エドガー・バーゲン(英語版)の出演する映画に感激し、ぬいぐるみを用いた見よう見まねの腹話術を、学校の文化祭で披露した[2]。すると、敵国アメリカ批判などを取り入れたブラックユーモアたっぷりのネタが評判になり、各地の余興に呼ばれるうち、中村メイコの劇団に参加するようになる[2]。
京都府立山城高等学校を経て、1949年に京都学芸大学(京都教育大学の前身)音楽科に入学。在学中の1951年に民放ラジオ局の朝日放送が開局すると、同局専属のタレントとしてプロデビュー[1]。大学生タレント第1号として売り出され、『ハリスクイズ』『ピアス歌のカクテルパーティー』の司会を担当。『ハリスクイズ』では、スポンサーの社名にちなんだ腹話術人形「ハリス坊や[2][3][5]」を相方にし、「イットーショー(一等賞)![2][3][5]」のフレーズが流行、お茶の間の人気者になる。同局の専属だった3代目桂米朝は「あの頃一番儲けはった」と当時を回顧している。
舞台では千日劇場や旧うめだ花月などに出演。弟子らを率いて『川上のぼるとリズムボーンズ』(1963年より『川上のぼると大阪ヤローズ』と改称)を結成し[3]、音楽ショウ、腹話術、声帯模写、コントなど、何でもありの芸で寄席を賑やかした。1987年には中国で公演した[2]。
晩年は天満天神繁昌亭に腹話術で出演。2011年頃ころから足を患い自宅で静養を続けていたが、2013年9月7日、心不全のため大阪府茨木市の自宅で死去した(83歳没)[6][7]。
妻は元宝塚歌劇団の恒月まさみ[2]。次男は弟子でもある川上じゅん[1]。
受賞歴
弟子および座員
- 寺下ジョージ - のちのタイヘイ原児。
- 堺すすむ
- 大空テント - 上岡龍太郎門下に移る。
- 宮本きよし
- 千田やすし
- 岸わたる - 並木ひろしとタッグマッチのメンバーを経て、現在は作曲家[8]。
- 安丸三一 - 現在は演歌歌手。
- 森今日生
- 野田まもる
- 川上じゅん
- 小泉みつる
- 村田いつ子
- 入門を経ずリズムボーンズ、大阪ヤローズのメンバーになった人物
- 藤本哲宏 - のちのピンアップトリオの哲二。アコーディオンの演奏で参加。
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芸風
- 唄う声帯模写の第一人者である。
- 物真似のレパートリー
出演
- ラジオ
- テレビバラエティ
- テレビドラマ
- おにいちゃん(OTV、1958年10月 - 1959年5月)
- 人形といっしょに(朝日放送、1959年6月 - 1959年10月)
- ダイラケ二等兵(朝日放送、1960年2月 - 1961年7月)
- てっちゃん劇場(朝日放送、1960年5月 - 1963年4月)
- スチャラカ社員[1](朝日放送、1961年4月 - 1967年4月)
- 瓦版・忠臣蔵(毎日放送、1964年6月 - 1964年11月)
- 甘辛横丁名迷伝(朝日放送、1964年10月 - 1965年3月)
- 水戸黄門(TBS、1964年11月 - 1965年12月)
- 続・柔(日本テレビ、1965年10月 - 1966年4月)
- 道頓堀アワー(大阪テレビ放送→朝日放送)
- 映画
関連項目
脚注
外部リンク
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