トップQs
タイムライン
チャット
視点
川原袈裟太郎
日本の海軍軍人 ウィキペディアから
Remove ads
川原 袈裟太郎(かわはら けさたろう、1870年1月12日(明治2年12月11日) - 1933年9月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将[2]。族籍は東京府平民[3]。
![]() |
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
経歴
肥前国(現在の佐賀県)出身。旧佐賀藩士・川原道種の三男[2]。川原義太郎の弟[3]。攻玉社を経て、1890年7月、海軍兵学校(17期)を卒業し、1892年5月、海軍少尉任官。
日清戦争では「大和」乗組として出征した。第2水雷艇隊付、砲術練習所分隊士を経て、水雷術練習所で学んだ。佐世保水雷団、「扶桑」分隊長、水雷術練習所教官、「秋津洲」水雷長、海兵教官、軍令部出仕、「鎮中」艦長、軍令部第3局員、ロシア出張などを経て、ロシア駐在となり1904年1月、中欧・ポートサイド諜報任務に従事。「浅間」分隊長を経て、日露戦争には第3艦隊参謀として出征し、大連湾防備隊参謀となった。
「沖島」副長、第2艇隊司令、伏見宮博恭王付武官、軍令部参謀、「鹿島」副長、「鈴谷」艦長、ロシア大使館付武官、「日進」「伊吹」「摂津」の各艦長などを歴任し、1916年12月、海軍少将に進級した。海軍水雷学校長、兼海軍砲術学校長、第5戦隊司令官などを経て、1920年12月、海軍中将となった。以後、将官会議議員、第2戦隊司令官、旅順要港部司令官を勤め、1923年3月、予備役に編入された。
Remove ads
人物
栄典
- 位階
- 1892年(明治25年)7月6日 - 正八位[4]
- 1896年(明治29年)7月20日 - 従七位[5]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正七位[6]
- 1905年(明治38年)9月12日 - 正六位[7]
- 1910年(明治43年)10月21日 - 従五位[8]
- 1915年(大正4年)11月11日 - 正五位[9]
- 1920年(大正9年)12月10日 - 従四位[10]
- 1923年(大正12年)4月30日 - 正四位[11]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等単光旭日章[12]明治二十七八年従軍記章[13]
- 1900年(明治33年)11月30日 - 勲五等瑞宝章[14]
- 1901年(明治34年)11月20日 - 双光旭日章[15]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[16]
- 1905年(明治38年)11月30日 - 勲四等瑞宝章[17]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功四級金鵄勲章・勲三等旭日中綬章・明治三十七八年従軍記章[18]
- 1915年(大正4年)11月7日 - 大正三四年従軍記章[19]
- 1918年(大正7年)2月26日 - 勲二等瑞宝章[20]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 戦捷記章[21]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[22]
- 1922年(大正11年)1月30日 - 勲一等瑞宝章[23]
- 外国勲章佩用允許
家族・親族
- 川原家
- 川原は1923年に、東京府豊多摩郡杉並町(現在の東京都杉並区)荻窪に、桜井小太郎設計により私邸を建てた。その川原邸は第二次世界大戦にも耐え、終戦後に歯科診療所となって2002年まで現存していた[25]。
- 1881年 -
- 長男・篤[2]
- 親戚
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads