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市邨芳樹

日本の教育者 ウィキペディアから

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市邨 芳樹(いちむら よしき、慶応4年3月5日1868年3月28日) - 昭和16年(1941年1月1日)は、備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市)出身の教育者学校の設置者[1][2]女子産業教育の先鞭者[2][3]広島県立尾道商業高等学校名古屋経済大学市邨中学校・高等学校名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校創立者[4]

概要 いちむら よしき 市邨 芳樹, 生誕 ...

経歴

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校長を務めた名古屋商業学校
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覚王山日泰寺にある墓

青年時代

備後国御調郡尾道(現・広島県尾道市久保町)生まれ[2]。16歳で上京し、1887年(明治20年)に東京商法講習所(現・一橋大学)を卒業[2]

教育者として

尾道に帰郷後、20歳のとき私立尾道商法講習所(現・広島県立尾道商業高等学校)を開校し、1898年(明治31年)の広島県への移管後も引き続いて校長を務めた[2][5][6]

1893年(明治26年)、招かれて愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)に赴任、教諭後校長としてその発展に尽力した。女子への本格的な商業教育を実践するため、1907年(明治40年)には日本最初の女子商業学校といわれる[2]名古屋女子商業学校(現・名古屋経済大学市邨高等学校)を設立[7]

1918年(大正7年)に名古屋女子商業学校長の職を辞した[2]。同年5月5日、名古屋国技館で市邨の謝恩会が催された際には、市邨の門下生4000人を代表して加藤勝太郎が謝恩の辞を述べ、加藤が出した5000円を含めて10数万円が集まった[8]。謝恩会による資金を元にして、1925年(大正14年)には名古屋第二女子商業学校(現・名古屋経済大学高蔵高等学校・中学校)を創設した[8]

女子産業教育の先鞭者とされ[2]、「女子商業教育の父」として称えられる[3][9]

晩年

1928年(昭和3年)には文部大臣表彰を受けた[2]。1941年(昭和16年)1月1日に死去。墓所は覚王山日泰寺にあり、隣接地には門人である太田静男三井物産筆頭常務)の墓がある。

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脚注

参考文献・ウェブサイト

外部リンク

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