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平野信助

日本の将棋棋士 ウィキペディアから

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平野 信助(ひらの しんすけ、1891年〈明治24年〉5月19日[1] - 1965年〈昭和40年〉12月12日[2])は、将棋棋士。贈七段。大崎熊雄門下。青森県出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人[3]

概要 平野信助 贈七段, 名前 ...

人物

1891年(明治24年)青森市大町生まれ[4]青森中学卒業後、第一高等学校の三部を受験し不合格となり[1]第二高等学校に進学[5]、医学を志すも18歳の時に初期の肺結核となり進学を断念し高校中退[1][4]

青森帰郷後に杉野岩太郎(当時二段)と知り合い、杉野を目標に棋力を付ける[1]。平野の棋力を認めた杉野の勧めで上京し、1918年(大正7年)4月に井上義雄の内弟子となり、付け出し四段となる[1]。同じころ、将棋同盟社に入会[1]。同年8月、体を悪くし一度帰郷[1]

1924年(大正13年)に上京し、大崎熊雄門下となる[1]。この頃に五段[4]1928年に六段[4]

なお、本項目では、後に「四段以上がプロ棋士」という制度が発生したため、四段昇段の年を特筆して書いてあるが、当時は四段は特別な段位ではなかった(五段以上が高段者という概念はあった)。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、(囲碁と同じく)「初段からが専門棋士」だった[6]。その頃、それと並行して奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった[7]

1943年(昭和18年)2月の満州国将棋大成会発足時に現地へ赴任[8]、その際に七段昇段の扱いとなるも[9]、病のため帰国後も六段のままの扱いとなる[10][4]

1945年(昭和20年)の空襲による家屋火災のため郷里の青森に戻り[1]、戦後の1946年順位戦にはB級クラスで参加し14戦全敗。青森と東京を往復しての対局が堪えたこともあり[1]、順位戦参加は1期限りで1947年引退。

1964年11月、棋界功労者表彰式で七段を贈られる[11][注釈 1]

1965年12月12日、水難事故により死去(享年74)[2]。同日より不明となっていたが翌1月5日、青森港で死亡が確認された[12]

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弟子

棋士

さらに見る 名前, 四段昇段日 ...

昇段履歴

主な成績

在籍クラス

さらに見る 開始 年度, (出典)順位戦出典 ...

脚注

関連項目

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