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庸軒流

藤村庸軒を流祖と仰ぐ茶道の流派の総称 ウィキペディアから

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庸軒流(ようけんりゅう)は、藤村庸軒を流祖と仰ぐ茶道の流派の総称。初期の伝承系譜によって大きくいくつかの派に分けられるほか、地域ごとに継承の伝統がある。

歴史と系譜

要約
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藤村庸軒は、久田家初代の久田宗栄の次男で、呉服商十二屋の藤村家に養子に入ったとされる(異説あり)。千宗旦のもとで皆伝を受け宗旦四天王の一人に数えられた。藤村庸軒の門人には茶に優れた人が多く、それぞれの系譜が伝わっている。そのうち現在まで伝わっているのが藤村正員、近藤柳可、比喜多宗積の流れである。

藤村家の本家十二屋は庸軒長男の恕堅から、途中養子を取りながら継承されたが、茶の系譜としては恕堅と松軒のみで絶えている。

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藤村正員の流れ

藤村正員は庸軒の次男で、大阪の関東屋の養子となった。正員は一生のあいだ病身であったため、茶道のみを楽しみに暮らしていたとされる。関東屋は庸軒の叔父の藤村紹和を元祖とする縁戚であり、養子による継承を重ねて正斎のあと一時断絶したがのちに再興した。藤村正斎のあと茶道は明福寺住職の観山によって盛り立てられ、中興と称されている。この系譜は藤村正員派と呼ばれており、現在は京都で伝承されている。

藤村正員の門人に斎藤道節(1684年~1766年)という人があり、元は大阪の人だがのちに江戸で庸軒流を広めた。この系譜が庸軒流華道とともに東京で伝わっていたが、茶道については昭和初期に絶えた。

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近藤柳可の流れ

近藤柳可は津藩藤堂家の依頼により津に赴き茶頭を勤めた人で、以来近藤家は代々藤堂家において指南役を務めてきた。近藤家の8代柳可の後は、津の河野宗通と東京の村口無庵の系譜に分かれ、さらに東京で菅森夢菴の系譜がわかれて現在3系統が伝わっている。これらをまとめて近藤柳可派と称している。

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比喜多宗積の流れ

比喜多宗積は屋号を大文字屋という京都の豪商で、日野肩衝を始めとする名物を所蔵していたことでも知られる。5代中田疎軒は江州堅田の辻氏から養子になった人で、多くの門人があり幕末の京都茶道界で一世を風靡した。7代月山は妙心寺537世で桂春院に住し、石河中軒・長谷川諦観・幽玄庵道契といった門弟を育てた。これによってそれぞれの系譜に分かれたが、これらをまとめて比喜多宗積派と称している。

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その他

北村祐庵(1650年~1719年)は江州堅田の豪農で、会席料理と造庭に通じ、幽庵焼きなどにその名を残している。北村家代々で伝承していたが、1913年に9代にあたる辻紹久が没して絶えた。

山本退庵もまた江州堅田の人で、米川流香道にも通じていた。茶の系譜としては京都西洞院の矢倉家に伝えられて代々伝承してきたが明治になって絶えた。

横井等甫(1639年~1725年)は京都中立売の豪商で、米川流香道にも通じていた。その後、久保又夢、久保可隆、中村範寿と伝えられているが、幕末を待たずに絶えていると考えられる。

久須美疎安(1636年~1728年)は京都の人で、藤村庸軒の婿である。『茶話指月集』の著者として有名であり、はじめは千宗旦の門人であったことから、宗旦四天王の一人に数えられることもある。

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関連項目

  • 金戒光明寺西翁院 - 藤村庸軒の祖父宗徳の創建による塔頭で藤村家の墓所がある

参考文献

  • 宮川祐宏「庸軒流」『日本の茶家』河原書店
  • 宮帯出版社編集部「茶道家元系譜」『茶湯手帳』宮帯出版社
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