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張又新

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張 又新(ちょう ゆうしん、生没年不詳)は、唐代官僚は孔昭[1]本貫深州陸沢県[2][3]

経歴

工部侍郎張薦の子として生まれた。幼くして文章に巧みで、附会を得意とした。元和年間、進士に及第し、左補闕・右補闕を歴任した。長慶年間、宰相の李逢吉に仕えた。李逢吉は翰林学士李紳穆宗に信任されていることから、これを憎んでいた。又新は李続之劉栖楚らとともに李逢吉の子飼いである「八関十六子」のひとりとして、李紳を陥れるべく画策した。長慶4年(824年)、穆宗が死去し、敬宗が即位すると、又新は李紳と対立したことから、端州司馬に左遷された。まもなく祠部員外郎となった[4][5]

宝暦3年(827年)、李逢吉が山南東道節度使として出向すると、又新はその下で節度副使となった。大和元年(同年)、李逢吉が宰相を退任し、裴度の弾劾を受けると、又新は連座して汀州刺史に左遷された。李逢吉が致仕すると、又新は李訓に仕えた。刑部郎中となり、申州刺史に転じた。大和9年(835年)、李訓が甘露の変で処断されると、又新はまた左遷された。のちに左司郎中として死去した[6][7]

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脚注

伝記資料

参考文献

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