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御徒町
1964年まで存在した東京都台東区の地域名 ウィキペディアから
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御徒町(おかちまち)は、1964年まで存在した東京都台東区の地域名。現行の町名では台東・東上野に相当するが、現在も御徒町駅周辺地域の通称として用いられる。

本項では隣接して存在した仲御徒町(なかおかちまち)についても扱う。
概要
→「御徒町駅」も参照
御徒町駅周辺5駅を核とした地域・通称。東京7か所の副都心、上野・浅草副都心を形成する拠点地域のひとつでもある[1]。江戸時代、久保田藩(秋田藩)が台東区周辺に上屋敷、中屋敷、下屋敷のほか、抱屋敷を所有しており、佐竹氏の名が佐竹商店街などに残っている[2]。その後明治の後半から大正にかけて、この地には寄席、見世物小屋が並び東京の一大歓楽街を成していた。寿亭、蜻蛉軒、久本亭のほかに射的、玉ころがしなどもあった。料理屋、牛肉、天ぷら、おでん等の多数の屋台が集まり大変賑わったという。その後昭和に入り御徒町駅ができると、もっぱら西側である上野広小路方面が栄えた。
戦後の混乱期には、御徒町は関東地方における覚醒剤(ヒロポン)の一大集散地となった。1954年(昭和29年)11月9日、警視庁は同年10月から始めた「ヒロポン撲滅運動」の一環として、御徒町の親善マーケットを警察官600人で急襲。麻薬密造70件、使用違反で3900人を検挙した[3]。
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交通
地名の由来
江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。御徒町周辺に於いては長屋に住み禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す。
なお、現在は町名としては消滅し、台東区台東、および東上野の一部となっている。また、この地名は城下町であればどこにでもある地名でもある。
御徒はそれぞれ組に属し、御徒組は本丸15組、西ノ丸5組が存在した[4]。各組の構成は頭1名、組頭2名、御徒28名から成り、将軍の行列の先導や幕府御用の警護、江戸城中の雑用を職務とし、組単位で屋敷地を拝領し、その組屋敷で暮らした[4]。『正保江戸図』(1644)には、地理的に軍事上の要所でもあった下谷・浅草に組屋敷があった[4]。
住居表示以前の地名
主な観光場
ギャラリー
- 御徒町駅(2010年12月6日撮影)
- アメヤ横丁 御徒町駅側入口(2010年12月6日撮影)
- アメヤ横丁 上野駅側入口(2010年12月6日撮影)
脚注
関連項目
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