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愛新覚羅胤祐
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愛新覚羅 胤祐(あいしんかくら いんゆう、満州語:ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ
ᠶᡡᠨ ᡳᡠ、転写:aisin-gioro in-io、康熙19年7月25日(1680年8月19日) - 雍正8年4月2日(1730年5月18日))は、清の康熙帝の七男。母は成妃のダイギャ氏。名は雍正帝の即位後に允祐と改めている。
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生涯
生まれつき足に障碍があったため、帝位継承権をめぐる皇子間の暗闘「九子奪嫡」には巻き込まれなかった。康熙37年(1698年)、ドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に封じられ、同48年(1709年)には多羅淳郡王に昇進した。
雍正元年(1723年)、和碩淳親王に昇爵された。この時、胤祉(康熙帝の三男)に協力して、景陵の「神功聖徳碑文」を仕上げた。雍正8年(1730年)に死去。
参考文献
- 『清史稿』
- 『星源集慶』
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