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懿敬世子
朝鮮王朝の王子 ウィキペディアから
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懿敬世子(ウィギョンセジャ、의경세자、正統3年(1438年) - 天順元年9月2日(新暦1457年9月20日))は、李氏朝鮮の王族。第7代国王世祖と貞熹王后尹氏の長男で、世祖の最初の王世子。月山大君と第9代国王成宗の父。第6代国王端宗の従兄弟にあたる。世子に冊封されたものの、病死したため王位に就くことがなかった。名は暲(ジャン、장)、字は原明(ウォンミョン、원명)、諡は懐簡宣粛恭顕温文懿敬大王、廟号は徳宗(トクジョン、덕종)。
生涯
1438年(世宗21年)、父の首陽大君(後の世祖)の私邸で誕生する。1445年に正義大夫の位を得て、桃源君(トウォングン)に封じられた。1450年、韓確の娘を正室に迎えると(後の仁粋大妃)、1453年には癸酉靖難での功労で興禄大夫の位を得た。1455年、父の国王即位と同時に、王世子に冊封された。幼少の頃より学問を好み、礼儀正しく優秀で楷書に長けていたが、生まれつき病弱であり健康面に不安を抱えていた。
1457年、病状が悪化し、慶会楼(キョンフェル)に孔雀斎(コンジャクチェ)を設けて21人の僧侶が病気治癒のために祈祷を行った。同年6月に先代王端宗が上王の位を廃されて魯山君に降格・追放された。そしてそれから間もない同年の旧暦9月2日、魯山君は19歳で賜薬・処刑された。懿敬世子は、亡くなる直前に伯母で文宗の妻である顕徳王后の幽霊が現れるのを見ており、このことから精神錯乱に陥っていたと言われている。しかしこれは懿敬世子の方が端宗に先んじて死亡しており事実と合わない。だが世祖の家族はみな端宗を殺したという罪悪感に非常に苦しんでいたと伝わっており、特に彼が崩御した後、世祖は顕徳王后の御陵を暴き、棺を川に捨てたとされている。[要出典]
死去の12年後の1469年に次男の乽山君(成宗)が即位し、徳宗の廟号で追尊された。現在は、京畿道高陽市徳陽区にある敬陵に埋葬されている。
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家族
后妃
後宮
- 貴人 権氏(生年不詳 - 1494年)- 修義校尉 権致明の娘。1456年に揀択により昭訓として入宮。追尊に伴い淑儀となり、1483年に貴人に封じられた。後宮を統括することもあったという。死後、10代王燕山君により廃妃尹氏の死に関わったとして号を剥奪された。
- 貴人 尹氏(生没年不詳)- 行太一殿直 尹沂の娘。1456年に揀択により昭訓として入宮。追尊に伴い淑儀となり、1483年に貴人に封じられた。
- 淑儀 慎氏(生年不詳 - 1476年)- 承訓郎・司直を務めた慎先庚の娘。1456年に他二人の側室と共に、揀択により昭訓として入宮する。追尊に伴い、淑儀となる。
いずれの側室との間に王子女を設けていない。
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参考文献
- 朝鮮王朝実録【改訂版】朴永圭 著、神田聡・尹淑姫 訳、2012年3月14日、キネマ旬報
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