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戦後レジーム
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戦後レジーム(せんごレジーム)とは、第二次世界大戦後に確立された世界秩序の体制や制度の事を指す[1]。「レジーム(Regime)」は、「体制・政治体制」などの意味で、フランス革命以前の旧体制を意味したアンシャン・レジームなどの用例が存在し、体制転換が行われることを「レジーム・チェンジ」と呼ぶ。
曽根泰教は、ブレトン・ウッズ協定に基づいて設立された国際通貨基金も「戦後レジーム」の一つであると述べている[1]。
安倍晋三と「戦後レジームからの脱却」
要約
視点
前史
日本国憲法が制定された政権の総理大臣は保守政党の自由党(自民党の源流の一つ)議員であった吉田茂である。当時この憲法にはむしろ日本における左の急先鋒の共産党から疑問の声が上がった。1946年6月28日の第90回帝国議会衆議院本会議において共産党の野坂参三は「否定されるべきは侵略戦争で、自衛の戦争は認められるべきだ」という趣旨で次のように吉田首相に質問している[2]。
...偖テ最後ノ第六番目ノ問題、是ハ戦争抛棄ノ問題デス、此所ニハ戦争一般ノ抛棄ト云フコトガ書カレテアリマスガ、戦争ニハ我々ノ考ヘデハ二ツノ種類ノ戦争ガアル、二ツノ性質ノ戦争ガアル、一ツハ正シクナイ不正ノ戦争デアル、是ハ日本ノ帝国主義者ガ満洲事変以後起シタアノ戦争、他国征服、侵略ノ戦争デアル、是ハ正シクナイ、同時ニ侵略サレタ国ガ自国ヲ護ル為メノ戦争ハ、我々ハ正シイ戦争ト言ツテ差支ヘナイト思フ、此ノ意味ニ於テ過去ノ戦争ニ於テ中国或ハ英米其ノ他ノ連合国、是ハ防衛的ナ戦争デアル、是ハ正シイ戦争ト云ツテ差支ヘナイト思フ、一体此ノ憲法草案ニ戦争一般抛棄ト云フ形デナシニ、我々ハ之ヲ侵略戦争ノ抛棄、斯ウスルノガモツト的確デハナイカ、此ノ問題ニ付テ我々共産党ハ斯ウ云フ風ニ主張シテ居ル、日本国ハ総テノ平和愛好諸国ト緊密ニ協力シ、民主主義的国際平和機構ニ参加シ、如何ナル侵略戦争ヲモ支持セズ、又之ニ参加シナイ、私ハ斯ウ云フ風ナ条項ガモツト的確デハナイカト思フ...—衆議院本会議 昭和21年6月28日(第8号)[3]
これに対する吉田の答弁は、共産党野坂さえも肯定的であった自衛戦争を「有害」として否定するものであった[4]。
...正当防衛、国家ノ防衛権ニ依ル戦争ヲ認ムルト云フコトハ、偶々戦争ヲ誘発スル有害ナ考ヘデアルノミナラズ、若シ平和団体ガ、国際団体ガ樹立サレタ場合ニ於キマシテハ、正当防衛権ヲ認ムルト云フコトソレ自身ガ有害デアルト思フノデアリマス...—衆議院本会議 昭和21年6月28日(第8号)[3]
この質疑応答は野坂と吉田の論戦としてよく知られている。吉田は1946年7月4日の衆議院帝国憲法改正特別委員会において軌道修正し「今日までの戦争は、多くは自衛権の名に依って戦争を始められたということが、過去における事実であります。自衛権に依る交戦権、侵略を目的とする交戦権、この二つを分けることが、多くの場合に於いて、戦争を誘起するものであるが故に、かく分けることが有害なりと、申した積もりであります」と協同民主党林平馬議員に答弁した[4]。また、岸信介の回想によると吉田は本心では改憲論者であったということである[4]。アメリカ合衆国に安全保障を依存する戦後体制が作られたのも吉田政権下であり、吉田政権は国会や世論に問うこともなく1951年に日米安保条約(1960年の安保条約の前身)を締結した[4]。
保守政党である自由民主党が権力を維持し続けた55年体制下で体制についての批判には安保闘争など左派側からのものが目立っていたが、1970年、右派の作家の三島由紀夫が反米保守の立場から戦後体制を批判し、「自分らを否定する憲法にぺこぺこする」自衛隊に対して「諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ」などと怒鳴り声で檄をとばして自決した(三島事件)。
吉田の系譜にある保守本流側でも憲法への疑念は存在し、田中角栄は吉田の経済成長優先を評価しつつも、憲法が国家主権の無いときに作られたことに批判的だった[5]。
安倍政権
憲法改正の動きが高まってきた2000年代、自民党の安倍晋三は、「戦後レジーム」体制からの脱却を掲げた[6][7]。安倍による定義では、戦後レジームとは「憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組み」である[8][9]。安倍は2006年7月21日発行の自著『美しい国へ』で、戦後レジームとは何か、そこから脱却するにはどうするか、について自身の理念を包括的に述べた[10]。
同年9月26日に第1次安倍内閣が発足、翌2007年1月26日、第166回国会における施政方針演説で戦後レジームを、原点にさかのぼって大胆に見直す必要を説いた[11]。安倍はその後、リベラル政党の民主党による政権を「戦後レジームそのもの」として長年批判した[12]。第二次安倍政権ではこの用語はあまり用いられなかった[13]。
批評
安倍と近い評論家の櫻井よしこは、「戦後体制から脱却し本来の日本国を取り戻そうというのが安倍氏の唱えた『戦後レジームからの脱却』の本心だった。GHQ(連合国最高司令官総司令部)は本当に変えてはならないところまで変えてしまった」と語った[13]。
一方、安倍晋三に関する著書を出版している小川榮太郎(文藝評論家・日本平和学研究所理事長)は「東大レジーム」だとした。
私は戦後日本の堕落をアメリカのせいにするのは嫌いなので「東大レジーム」という言い方をしますが、戦後東大、岩波書店、朝日新聞という知的権威が共産主義者に乗っ取られました。頭脳部分を取られますと、それが再生産されますので、これは実に長く我が国の正常化を妨げてきた。—第1100回武藤記念講座要旨 2023年2月4日(土) 「吉田松陰、三島由紀夫、そして安倍晋三」[質疑応答][14]
作家・政治家の石原慎太郎も戦後体制への批判者であり、晩年に石原が「暴走老人」と自称したのはその所以である[15]。石原は吉田茂首相の側近中の側近であった白洲次郎とゴルフ等で親交があり、会話を交わす中で白洲は「吉田茂の犯した最大の間違いは自分も同行していったサンフランシスコの日本の独立がみとめられた講和条約の国際会議でアメリカ制の憲法の破棄を宣言しなかったことだ」と言ったという[16]。 石原も白洲の考えに同意し、2012年10月25日の東京都知事としての緊急記者会見において次のように発言した。
吉田茂の間違いは、あの人は経済国家、経済界を指示したんでしょうが、しかしやっぱり独立した後、サンフランシスコ条約であの憲法を廃棄してすぐに自分たちで新しい憲法をつくるべきだったんだ。それをしなかったのは吉田茂の最大の瑕瑾(かきん)だと思いますな。—石原知事緊急記者会見 2012年10月25日[17]
石原や安倍が名を連ねる最大の保守系団体日本会議の小田村四郎副会長は戦後レジームからの脱却を標榜する安倍政権は祖国再生への希望であると評していた[18]。
安倍に批判的なジャーナリストの田原総一朗は、自民党が戦後永らく政権を担ってきたのであるから自民党こそが戦後レジームであるとした[19]。また、外交評論家の河村洋は、戦後レジームの見直しを主張することが、国際社会に対して日本が戦前の体制に逆戻りする誤解を与えると論じた[20]。
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脚注
関連項目
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