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戴休顔
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経歴
軍中にあって胆略あることで知られた。大暦年間、郭子儀の部将となり[2]、党項羌を説得して降した。黄河の褶曲地帯を平定した功績により、太常寺卿に試用され、済陰郡公に封じられた。さらに咸寧郡王に進封され、朔方節度副使を兼ねた。邠州に城を築いた功により、塩州刺史に転じた[1]。
建中4年(783年)、涇原の兵が反乱を起こし、徳宗が奉天に避難すると、休顔は部下3000人を率いて駆けつけた。渾瑊・杜希全・韓遊瓌らとともに防御に功績があった。興元元年(784年)2月、李懐光が叛くと、徳宗はさらに梁州・洋州に移り、休顔は奉天の留守をつとめた。李懐光は咸陽に拠って、使者を送って休顔に誘いをかけてきた。休顔は三軍を集めてその使者を斬り、籠城して固く守った。李懐光は驚いて、涇陽から夜間に逃走した。休顔は検校工部尚書・奉天行営節度使に任じられた[2][1]。
李晟が長安を奪回すると、休顔は渾瑊とともに朱泚の偏師を破り、3000人を斬首した。休顔は反乱軍を中渭橋まで追いかけた。休顔は渾瑊らとともに兵を率いて岐山に赴き、朱泚の残党を迎撃した。勲功により、検校尚書右僕射を加えられた。7月、徳宗に従って長安に入った。ほどなく左龍武軍将軍の号を受けた[3][1]。貞元7年(791年)3月壬戌、死去した[4]。享年は59[5]。揚州大都督の位を追贈された[1]。
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脚注
伝記資料
参考文献
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