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文訪蘇
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文 訪蘇(ぶん ほうそ、1892年〈清光緒18年〉– 没年不明)は、中華民国の官僚・学者・ジャーナリスト。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。学者やジャーナリストとしての経歴もあるが、出身地や没年など不詳な点が多い人物である。
事績
日本へ留学し、明治大学法学部を卒業したという[注 2]。また、1929年(昭和4年)には横浜YMCA会員となったことが確認できる[3]。
帰国後の文訪蘇は冀察政務委員会参議、天津市公署社会局局長、駐日大使館秘書を歴任している[2]。文筆・評論を得意とし、北京の新聞で社論を起草したこともあったという[1]。また1938年(民国27年)頃には、北京大学で古文や金石学の教鞭をとったこともあり、書家の金藤含翠は文に師事した[4]。
王克敏らが中華民国臨時政府を創設すると、文訪蘇もこれに参加した。1938年5月26日、教育部(総長:湯爾和)で文化局局長に任命されたが[5][6]、翌1939年(民国28年)1月6日に早くも辞職している[7]。臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し華北政務委員会に改組されると、文は建設総署(督弁:殷同)で秘書に任命された[8][2][注 3]。これ以外に、1938年に発足した東亜文化協議会で理事に就任している[9]。
1941年以降における文訪蘇の動向は不詳となっている。
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注釈
出典
参考文献
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