トップQs
タイムライン
チャット
視点

春好斎北洲

江戸時代の大坂の浮世絵師 ウィキペディアから

春好斎北洲
Remove ads

春好斎 北洲(しゅんこうさい ほくしゅう、生没年不詳)とは、江戸時代大坂浮世絵師

概要 性別, 国籍 ...

来歴

松好斎半兵衛の門人でのちに葛飾北斎に入門したといわれている[1]。俗称治兵衛。初名は春好、後に春好斎、雪花亭と号す。大坂の椹木町、石屋橋東詰に住んだ。当初半兵衛門人として活動していたが文政元年(1818年)、春好斎北洲と改名し北斎が使った「よしのやま」の印を用いている。また翌文政2年刊行の北斎の絵手本『北斎画式』には、「摂陽浪花校合門人」として「雪花亭北洲」の名があり、以後の画風にも北斎風が窺えるという。ただし北洲が、北斎から実際に絵の指導を受けたかどうかは定かではない。

大判錦絵に限れば約300点を残したといわれ、上方では質量ともに最大量の役者絵を残した浮世絵師であった。北洲は流光斎如圭や松好斎の様式を受け継ぎ、それに役者が映える姿を強調する江戸の趣味を加味して、上方役者絵を完成に導いており、文政以降の上方絵の方向性を決定づけている。役者絵の中では、大首絵、舞台画に特色があり、読本、芝居根本などにも描いていた。文化6年(1809年)から天保3年(1832年)までにかけての作品が知られているが、文政期前半が北洲の最盛期で、半身像の大首絵に名品が多く見られる。他に門人の春蝶春陽斎北敬などと2枚続の錦絵を合作したものもある。肉筆による役者絵も描いている。春曙斎北頂春梅斎北英を始め春暁斎北晴春旭斎北明北心斎春山、春信及び彫師の嘉助など北洲の門人は多く、蘭英斎芦国系と上方の浮世絵界を二分する勢力を形成した。他にも北松、楳莚、春敬、春渚(春要)、画登軒春芝、春子、春錦、春郷が門人であったと推定されるが寡作の絵師が多かった。

Remove ads

作品

版本挿絵

  • 『文月恨切子』 絵入根本 ※文化7年
  • 『猿曳門出乃諷』 絵入根本 ※文化7年か
  • 『傾城黄金鱐』 絵入根本 ※文政2年(1803年)

錦絵

肉筆画

さらに見る 作品名, 技法 ...
Remove ads

脚注

参考文献

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads