トップQs
タイムライン
チャット
視点

最上山辨治

ウィキペディアから

Remove ads

最上山 辨治(もがみやま べんじ、1841年天保12年〉 - 1874年明治7年〉7月22日)は、出羽国最上郡(現在の山形県新庄市[1]出身で若松部屋秀ノ山部屋に所属した元力士

本名は武田とのみ伝わっている。身長・体重は不明。

最高位は西前頭5枚目。

1860年10月場所で初土俵(序ノ口)を踏んだ。1870年4月場所で、西十両8枚目(十枚目格)に昇進。1873年4月場所で、新入幕を果たしたが、この場所後体調を崩し、現在の愛知県一宮市で療養に努めた[2]。しかし、体調は回復することなく翌1874年7月22日に、同地で死去[2]。34歳没。

幕内通算 3場所 4勝3敗2分21休の成績を残した(うち最後の2場所は全休〈20休〉)[1]

改名歴は3回ある:最上川→最上山→伊勢ヶ嶽→最上山 辨治。

出典

関連項目

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads